古代ローマ・トイレの落とし穴、その2

豊田 浩志

前回は、台所トイレと二階トイレについて触れた。今回は、それに劣らず意外なエピソードを紹介したい。

@ユリア・フェリックスの地所平面図  ↑N

@ユリア・フェリックスの地所平面図 ↑N

2014年夏は、池口氏の科研の一環で、氏と共にポンペイ遺跡の「ユリア・フェリックスの地所」(II.iv.1-12:@)を訪れた。この大邸宅は多彩な壁画や高度な工芸品の出土で著名だが、私の見学申請箇所は脇目もふらず「トイレのみ」だったので、案内してくれた遺跡監視人は不審だったに違いない。みるべきものはもっと他にあるはずなのに、と。彼としては不満だったのだろう、もう一つのトイレ見学場所「メナンドロスの邸宅」(I.x.4)では、頼みもしないのに専用浴場と有名な銀器発見現場にわざわざ案内してくれた。さて、ユリア・フェリックスの大邸宅は、円形闘技場や訓練場の北西側の一角の、通常規模の街区(insula)2つ分を合わせた例外的な広さで、幹線道路「アポンダンツァ通り」沿いに「?」型に家屋が建てられ、半分以上を庭園・果樹園・菜園が占めている。ここには典型的とはいえない「台所隣接トイレ」(上図@の入口10付近の人形の箇所)と、浴場複合体の一部をなす別棟の「公共トイレ」(7の下方複数人形)がある。
今回見学の狙い目は後者だったので、「台所隣接トイレ」は借用写真を提示するに留めるが、これだけ奥まると入口をカーテンで覆ってプライバシー保護が可能なので、単純な奴隷用トイレではない、と私は考えているがどうだろう。

@-1 台所:右側の壁の向こうがトイレ

@-1 台所:右側の壁の向こうがトイレ

@-2 路地の先の奥まったトイレ:この形式も多い

@-2 路地の先の奥まったトイレ:この形式も多い


さて浴場付属共同トイレは、図面から推定するに、内径でほぼ224cm四方の、見た目にトイレと思えないかまぼこ型の半円筒ヴォールト型のこぢんまりした建物で、西側の塀沿いの狭い路地経由で入る。入口の右手と正面(南壁と東壁)に「?」字型に深い下水溝とかつて便座を支えた構造物が残っているが、便座部分はない。ヴィンドランダ新発見と同様、木製だったのだろう。床の現状は水場なのになぜか三和土(タタキ)状で、通常設置されている便座の足下前の浅い溝もないが(Aには、それらしきものが描かれているが)、入口右手に円形のくぼみと下水溝への切れ込み、さらに逆の入口正面左手にはやや浅いが四角のくぼみと切れ込みが確認できる。そこには手洗い用の手水があった可能性がある。また小窓が、南北でアーチ構造が始まるあたりの高さ(人物の頭部付近)、東の上部の3箇所あって、自然採光をもたらしている。

@-3 前面はプール、奥の右の建物がトイレ ↓N

@-3 前面はプール、奥の右の建物がトイレ ↓N

人物は、監視人(左)と池口氏(右) ↑W

人物は、監視人(左)と池口氏(右) ↑W

Aトイレ平面拡大図 ↑S

Aトイレ平面拡大図 ↑S

B正面東壁と南壁、下水溝と便座支持構造 :若干のフレスコ画が残っている

B正面東壁と南壁、下水溝と便座支持構造 :若干のフレスコ画が残っている

このトイレは、@の建物群のうち中央の浴場複合施設の南端に位置していて、その客専用だったと思われるが、プール付近というのがミソかもしれない。スイマーの生理現象に対応し、同時にプールや浴場の排水が文字通り「流用」されていたのだろう。


このトイレを訪れたとき、私は不意打ちで妙なものを視認した。それは入口から向かって左隅に現場保存された壊れた土器だった。普通であればこれを手水(ちょうず)とみても不思議ではないが、ここにはその痕跡らしきものが別にある。念のため監視人に用途を聞いたところ、彼はなんと小便用のアンフォラだと即答した。なるほど。こういう公共トイレで小用をどう処理していたのか、それが私の積年の疑問の一つだったのだが、思わぬ形で決着した思いだった(別系列の小用構造については、後述参照)。

南壁:右の出入口手前の円形のくぼみと下水溝への切り込みに注目(池口氏提供)

南壁:右の出入口手前の円形のくぼみと下水溝への切り込みに注目(池口氏提供)

左が北壁、正面東壁:中央手前の方形のくぼみと切り込みに注目(池口氏提供)

左が北壁、正面東壁:中央手前の方形のくぼみと切り込みに注目(池口氏提供)

というのも、女性と異なり、いわゆるローマ式トイレで男性が小用をするのは、実際にはそう簡単ではない。このあたり、実際の用足しの動作をしてみれば一目瞭然なのだが、どうやらだれも気づいていないようなのはどうしたことか。基本的に男性にとって放尿の正しい態勢は今も昔も立ち小便が国際標準であり、座っての放尿は苦手のはずで、私はそれを海外の国際空港の男子トイレでいつも思い出すことになる。

ついでに駄弁を弄しておくと、10年ほど以前のことだっただろうか『日経新聞』の「私の履歴書」で、ある人がアメリカ留学中のエピソードとして、大学のアメフトサークルだっけのロッカールームで、アメリカ人は大と小を同時にすることはできないが、日本人にはそれができるという話をしたところ、みんなの前で実演する羽目になり、あげく驚嘆のまとになった、と書かれていたことを思い出す。ならば、かの地の人びとは、たとえばまずはアンフォラで小を出したあとに便座に座って大に移る、という動作だったのかしれない。

北西隅の土器片

北西隅の土器片


さて本筋に帰る。画像収集しているうちに、これまで固定型専用小用トイレを1つ見つけているが(C)、少なくとも遺跡現場でみかけた記憶はない。ここでは便器が3つ描かれている。一番左は普通の便座で、真ん中は座板がない、右は立ちション用である。真ん中が立ちション用であれば右のは不要ではとも想像したのだが、これはしゃがみ込んで用を足すのが好きな人向け、と説明されている。この観点を採用するなら、小規模な家庭内トイレはもとより、おしなべて便座が全面復元されるのが通例の公共トイレにおいて、一隅にそれなしの区画があった可能性、それにたとえ右端の立ちション専用区画なしでも、真ん中でのそれも立っての使用が可能なはずで、それを前提に考え直す必要がある、と思うのだがどうだろう。アラビア式らしき画像も添えておこう。

C-1

C-1

C-2 アラビア式?しゃがみトイレ?

C-2 アラビア式?しゃがみトイレ?


また、関連でこれはたぶん私独自の仮説なのだが、オスティア・アンティカ遺跡を彷徨しているうちに次のような構造物を見つけた。場所は「ミトラの浴場」(I.xvii.2)で、南端の東側からの出入口を入ってすぐ右の、外壁に沿った床面である。進入禁止の横柵が目ざわりだが、床面にチルコ形状の分厚い石板が置かれ、その両端に古代ローマ時代では下水に通じる排水溝のフタでよく使用されている萼(がく)片状の切り込みが切られ、次の内側左右に円盤状くぼみ、そして真ん中に大きめの穴が穿たれている。私はこれを、壁に向かっての男性用立ちション専用のトイレと鑑定したのだが、読者諸氏はどうお考えだろうか(真ん中の大きな穴では、他に所用の人がいない場合、しゃがんで大便も可能だろう)。この石板の地下には水が流れていたのだろうか、それとも小便専用ならアンフォラへと向かっていたのだろうか。まあ建物自体が浴場なので一気呵成に流していた可能性が大だろう。

D 「ミトラの浴場」鳥瞰図:ちょうど下部左方向のAの外階段の内側が該当箇所

D 「ミトラの浴場」鳥瞰図:ちょうど下部左方向のAの外階段の内側が該当箇所

全体写真 ↑N

全体写真 ↑N

右端拡大写真

右端拡大写真

実は同様の構造物を、20年ほど昔、南フランスのニーム Nimes(旧名Nemausus)だったと思うが、保存のいい円形闘技場で目撃した記憶がある(残念ながら、撮影したはずの写真を今回発見できなかった)。円形闘技場の一番外側の回廊の壁面に沿って、オスティアと同様の床構造が、それこそ壁のカーブ沿いにずら?と並んでいたのを一種感動して眺めたことを思い出す。私はかねて、大量の人びとが集う円形劇場や闘技場でトイレが付属して設置されている例の現認が希有なことに疑問を感じてきたので、直感的にこれだ!と確信したのだが、現況でそれが残存していない遺跡では、本来設置されていたものが後世取り外されて、他に転用されてしまった、ということなのだろうか。

さて、まだまだ謎の多い古代ローマのトイレであるが、この小稿を締めくくるにあたり、ローマ・トイレ最大の謎と誤解に迫りたい。それはいわゆる「尻拭き」「落とし紙」の件である。略史的に書くなら、ローマ人は最初ギリシア人同様小石や布、そして指を使用していた(その場合、最終的には水で指を洗ったはず。いやこれまでなぜか指摘されていないが、水での洗浄こそ少なくとも地中海世界では本流だった、と私は密かに確信しているのであるが)。それがいつしかなぜか「棒付き海綿」を使ってお尻を拭いていたといわれ出す。前稿で書いたように、考古学的な遺物としての出土例はこれまで皆無であるにもかかわらず、なのである。どうやらその鍵を握っているのは、唯一の文書的典拠としていつも引用されるセネカの以下の証言のせいらしい。

 たとえば最近のことですが、闘獣者訓練所のゲルマニア人の一人が、午後の公演の訓練を受けていたときに、体を休めるといってその場を出ました。監視人もなく彼が一人でいることを許されるのは、これ以外にありませんでした。そこで彼は、そこにあった汚物洗浄用の海綿付きの棒 ad emundanda obscena adhaerente spongia をとって、それを喉に奥深く詰め込み、喉笛を詰まらして息を断ちました。(E)

それを、かの有名な哲学者モンテーニュがふんだんにセネカを引用した『瞑想録:エセー』(1580年刊行)の中で、この箇所を「彼らは尻を拭くのに・・・(棒の先に結びつけられた)海綿を使った」とコメントしたため(F)、多くの研究者が検証もせずこれまでそれに無批判的に追従してきたためと思われる。そもそも、セネカは尻拭き用として「棒付き海綿」に言及していたわけではない。現代でも類似品を見ることができるトイレ洗浄器具と読むのが正しい理解なのだが。そしてその結果、ご丁寧にもいたる所でもっともらしい復元物や絵画や解説を目にするようになった、というわけである。

G-1 イギリス・ヨークの浴場博物館展示物(林俊明氏提供)

G-1 イギリス・ヨークの浴場博物館展示物(林俊明氏提供)

G-2 想像復元図 右の男性の所作に注目。正面奥の老人はひょっとして小用中、のつもり?

G-2 想像復元図 右の男性の所作に注目。正面奥の老人はひょっとして小用中、のつもり?

実際に使用してみると、いや想像してみるだけでもわかりそうなものだが、排便の事後処理用としてそれはとても使えたしろものではない。むしろ棒なしで直接海綿を使ったほうがよほど効果的なはず。もちろん、世の中には私と同様流布説に不同意の大先達もいらっしゃって、セネカの言及はトイレ掃除道具だったとか、なんと嘔吐用具だったと喝破した人たちもいた。管見の限りその劈頭の栄誉を担っているのは、前号で紹介した20世紀初頭の辞書項目の執筆者 H.Thedenat(col.991)であり、最近では本稿掲載のモネスティエ(C:108頁)や、カール=ヴィルヘルム・ヴェーバーであろうか(H)。


ここで海綿(スポンジ)について簡単に触れておく。地中海の海底で採れた海綿の細かい網目状の海綿質繊維を利用するため、まず組織を腐敗させ、残った骨格を洗い流して整形したものが販売され、商品としてはそのきめの細かさで、ラフなボディ用ハニカム種と緻密なフェイス用シルク種に大別される、らしい。今の場合はボディ用で十分だろう。

アテネでの海綿の店頭販売スナップ

アテネでの海綿の店頭販売スナップ

シルク種の海綿

シルク種の海綿


ここで私見を愚考するに至った経緯をお話ししよう。そのヒントとなった史料は、意外にも新約聖書だった。四福音書が大同小異ながらいずれも記載している、磔刑上での死の直前にイエスがそばにいた人びとないし兵士たちによって「酢」を飲まされた箇所で(マルコ15.36;マタイ27.48;ルカ23.36;ヨハネ19.29:以下、田川健三訳に依拠)、ルカ以外では唐突に「海綿」が登場しているのだ。したがって、イエスの十字架刑を描いた絵画でも必ずといってよいほどそれは書かれている。次の絵画はカラバッジオ派の一例である。

ルカで登場する兵士たちがローマ兵とユダヤ兵のいずれかは言明されていないが、今それは横に置いておこう。私が問題にしたいのは、なぜ処刑場にいた兵士なりそばにいた人びとが「海綿」を携帯していたのか、である。そしてまた福音書記者たちがなぜ「海綿」にそれほどこだわって書いていたのか、という点にも注意を払うなら、これまでの聖書注解で見落とされてきた新解釈も可能な予感さえする。

I

I

ここでは細部の差異にあまりこだわらないで、最古の福音書とされる「マルコ福音」の叙述で話を進めよう。午後3時に至りイエスは大声で断末魔と覚しき叫び声をあげた(15章3節)。それを聞きとがめ、居合わせた者たちのうちある者が走り寄り、「海綿を酢で満たし、葦につけて飲ませ」た。ここでの「居合わせた者たち」とは、一般の野次馬ではなく、おそらく刑場警備担当者で、死刑囚の絶命が確認されるまで現場に待機していたのであろう。彼らはその日の職務が終わるまでの時間つぶしに、安ワインを飲みながら雑談していたのかもしれない。叫び声を聞いた彼らのうち一人が、やおら海綿を持ち出し、それに飲んでいた安酒を含ませ、たぶん気付け薬として(そうする必要があったとは思えないが)イエスの口に含ませようとしたわけである。その安酒がなぜ「酢」と表現されたかというと、まあその安酒が酢に近いしろものだったこともあろうが、それ以上に「詩編」69[68].22の「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」の預言成就とみなす都合上、無理矢理そう書き記されたと想定するしかない。そもそもなぜ修羅場の磔刑場に、枝葉末節と思える酢や海綿がことさら登場する必然性があったのか、謎だからである。

さて私の珍説の核心を述べよう。「海綿」はなぜ刑場にあったのか。「居合わせた者たち」がおそらく常時携帯していたからである。なぜ携帯していたのか。これが当時の紳士淑女のたしなみだったからに違いない。いわばかの時代の携帯ティッシュだったのだ。具体的に想像するに皮製の小袋にでも入れて持ち運んでいたのではなかろうか。事に及んでの後始末にやおら小袋から「マイ・スポンジ」を取り出して、水に浸して尻を拭く、そしてまた水に浸してプシュップシュッと洗浄して小袋に戻す・・・。乾燥した地中海性気候だから、臭いは瞬時に拡散して気にならなかったはずだ(水がなければ使い捨てたかも。いな最初から使い捨てだったかもしれない)。

となると、イエスの口元に差し出された海綿は刑場警備員の尻拭き用だった。そしてイエスはなんとそれを口に含んでから絶命した。当時の人びとにとってイエスに加えられたこの最期の屈辱の意味は、海綿の登場で明々白々だったはずだ。そして現代、新約聖書を読んでこれに気づく人は皆無である。

ここまで想像をたくましくするならば、結局水さえあれば指を使って局部の洗浄はかなり達成されるはず、と気づかざるをえない。落とし紙のほうが後始末としては不潔だからである。この点、イタリアでは現在でも便器の横に必ずビデが併置され、ホテルではそれ用の小型のミニタオルも添えられている(これを誤ってフェイス用やバスタブでの身体洗浄に使用したり、ビデを小便器と誤解する日本人がいて、格好のイタリア小話のネタになっているが、同朋としては笑えない)。かくして、ビデの伝統の淵源は事後処理に水を使用するアラブ式トイレと同列の、地中海世界の標準パターンといっていい、と私は考えている。その伝統が、今日我が国が世界に誇るウォシュレットなりシャワートイレへと繋がっていることになる。


【引用文献・ウェブ】
@ http://www.pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/Plans/plan_2_04.htm
A Ed.by J.Dobbins and Pedar W.Foss, The World of Pompeii, London & New York, 2007, p.360;B.Hobson, Pompeii, Latrines and Down Pipes, BAR International Series 2041, 2009, p.131.
B http://www.pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R2/2%2004%2010%20p2.htm
C-1 マルタン・モネスティエ(吉田春美・花輪照子訳)『図説排泄全書』原書房, 1999, 135頁(Martin Monestier, Histoire et Bizarreries sociales des Excrements des Origines a nos Jours, Paris, 1997, p.73); -2 Pierre Gusman, Une Ville-Antique sous les Cendres Pompei, Paris, ca.1900, p.282.
D http://www.ostia-antica.org/regio1/17/17-2.htm
E 茂手木元蔵訳『道徳書簡集(全)』東海大学出版会, 1992, 254-5頁(Seneca, Epistulae morales ad Lucilium, LXX.20);cf., マールティアーリス(藤井昇訳)『エピグランマタ』下, 慶応義塾大学言語文化研究所, 1978, 254頁(Martialis, Epigrammata, XII.48.7-8):(豪勢な夕食であっても、その末路は)「忌まわしい柄の先についたみじめなスポンジ、あるいはそこいらの犬と道端に据えられた小便壺が知っている」。「犬」が嘔吐物を食べに来た犬の意であれば、スポンジはトイレ用ではなく嘔吐用であることは文脈から明らか。
F 第1巻第49章「昔の習慣について」:河野與一校閲・原二郎訳『モンテーニュ エセーI』『世界文學大系』筑摩書房、1958、215頁。
G-1 写真に写っている説明書きには「これは“共同使用”の棒付きスポンジである。トイレに入ると、兵士は[消毒用の]ヴィネガーで満たされた壺から自分のスポンジを選んだようだ。彼は、水の流れている溝の中でそれを洗い、それを使用した! それをまた洗ってそして壺の中に戻すのである」と書かれている。
G-2 Liselotte Pies, Marcus in Treveris, Rheinisches Landesmuseum Trier, 2007(1987), p.41.
H 小竹澄栄訳『古代ローマ生活事典』みすず書房、2011(Karl-Wilhelm Weeber, Alltag im Alten Rom:Das Leben in der Stadt.Ein Lexkon, Dusseldorf, 1995)、392頁、321頁も参照。
I Battistello作「十字架刑」(1610年頃)部分図:ナポリ・国立カポディモンテ美術館所蔵。

(上智大学 文学部 教授)
2015/6/20脱稿、7/12修正

追伸1:2015年9月上旬のポンペイ現地調査では、8カ所ほど見学要望を提出したが、許可されたのは1カ所のみだった。遺跡修繕がEU所轄になったせいかもしれない。それについては別の機会に報告するにして、今回は特筆すべき発見があった。調査許可のテッセラを持っていたので早朝8時半くらいに入構できたせいか、いつも立入禁止となっている箇所が開いていた。同行の学生戸練君がそれに目を留め入ってみると・・・そこがトイレだった! 場所は円形劇場観客席の一番上の西端(VIII.7.21)、逆に言うと三角広場 Foro triangolare 横を走る通路と劇場の接点というべき隅の部屋である(下図の9)。これはポンペイ関係でもっとも充実したウェブですでに紹介されていたが(PompeiinPictures:http://www.pompeiiinpictures.com/pompeiiinpictures/R8/8%2007%2021%20p2.htm)、これまで不覚にも気付かなかったものである。

なぜか私のニコンはシャッターがおりなかったので、ここではiPhoneでの戸練君撮影のものを許可を得て掲載しておく。この部屋は長細い三角形型で一方の壁沿いに便座跡がある。狭い上に窓がないのでとにかく暗い。それにしても劇場に来る観客にはこれだけの設備で十分だったのだろうか、どうも疑問である。

トイレ入り口

トイレ入り口

三角形型の空間の片一方に便座跡

三角形型の空間の片一方に便座跡

追伸2:ローマ市のアウレリアヌス城壁の、Piazza Fiumeに面した城壁の外に突き出してトイレが唯一残っている。レンガの形状が後世の積み上げの境目にあるので、果たして古代ローマ時代のものか若干怪しい感じがするが。

城壁の外に突き出したトイレ

城壁の外に突き出したトイレ

その裏側、というより城壁内側の現況

その裏側、というより城壁内側の現況

追伸3:2015年8月に、日本トイレ協会編『トイレ学大辞典』柏書房、が刊行されたこともご報告しておこう。

以上、2015・11/11付記