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この記録を論文等で参考資料としてご紹介くださるときは、以下のようにご記載ください。
岡知史(2012)『自死遺族の自助グループと悲しみについての考え方:悲しみは愛しさとともに』(全国自死遺族フォーラム2012基調講演)http://pweb.sophia.ac.jp/oka/papers/2012/izokuforum2012/
![]() ただいま、ご紹介いただいた岡と申します。 今回は、昨年に引き続き、このような年に1度のフォーラムでお話させていただく機会をいただきまして、たいへん嬉しく思っています。 前回の全国自死遺族フォーラムでは、グリーフケアの専門家たちが言っていることのなかには、科学的な根拠に欠けるものが、実は、たくさんあるんだ、という話をさせていただきましたが、 今回は、グリーフケアではなくて、自助グループの「悲しみについての考え方」ということを中心に、特に「悲しみは、愛しさとともにあるんだ」という自助グループの考えかたに焦点をあてて、お話したいと思っています。 |
![]() 自死遺族の自助グループは、悲しみについて、ひとつの考え方をもっています。それは、どういうものかというと、今回の講演のサブタイトルにありますように「悲しみは、愛しさとともに」あるんだ、という考え方ですね。 私は、これは、自助グループにとって、とっても大事な考え方だと思っています。 悲しみについての考え方は、他にもあります。悲しみについての考え方を、はっきり出している団体が、他にもあります。 それは、グリーフケアを進めている人たちですね。彼らは、彼らで、悲しみについての考え方をもっています。 そして、いま日本中で、グリーフケアが大流行なんだそうです。私は、もちろん、ここでグリーフケアの善し悪しを論じるつもりは、ありませんし、また、それだけの知識も力量もありませんが、ただ、ここで言いたいのは、 グリーフケアは、グリーフケアで、悲しみについての考え方を、はっきりと出しています。 そして、その考え方は、自助グループの考え方と、はっきりと違う、ということですね。 今日は、この「悲しみは、愛しさとともに」あるんだという、自助グループの考え方を、グリーフケアで一般的に言われる「悲しみについての考え方」とを、対比しながら述べたいと思います。 私のお話が終わったあと、自死遺族の自助グループが、悲しみについて、どういう考え方を打ちだそうとしているのか、それがグリーフケアの考え方とどう違うのか、そのことが、みなさまのなかに、いくらかでも残れば、私の今日のお話は成功だったかなと思っています。 |
![]() さて、この「悲しみについての考え方」ですが、これをずっと見ていて、私は、ふと思ったのですが、もしも、ここに、こういう文字が入ったら、みなさん、どう思いますか。 「悲しみについての正しい考え方」ですね。 「えっ? 悲しみについて、正しい考え方なんて、あるの?」と思いませんか。 結論を先に申し上げますと、私は「悲しみについて、正しい考え方」なんて、ないと思っています。 たとえば、「人生についての、正しい考え方」なんて、あるでしょうか。たぶん、ないんじゃないでしょうか。人生は、人それぞれでしょう。ある時代の、ある地域には、この生き方が一番!というのが、あったのかもしれませんが、 人類の長い歴史と、世界中の、さまざまな国と地域に生きる何十億という人たちを考えれば、「人生についての、正しい考え方」なんて、ないと思いますね。 同じように、たとえば「幸せについての、正しい考え方」なんていうのも、たぶん、無いと思いますね。幸せについての考え方は、人それぞれでしょうからね。 でも、これは、どうでしょう。「血圧の数字の正しい読み方」 これは、あるかもしれませんね。私には医学的な知識は、ほとんどありませんが、定期的な健康診断を受けると、血圧の数字が出ていますね。その数字を見ても、私などは、よくわかりません。 でも、その数字の横に、Aとか、Bとか、Cとか、書いてあるわけですね。Aだと全く問題ないとか、Bだと様子をみましょうとか、Cだと、ちょっとお医者さんの指導を受けてくださいとか、書いてあるわけで、 それを、信じるしかないわけで、ということは、「血圧の数字の正しい読み方」というものが、存在するのだ、と認めていることになりますね。 他の例としては、「あせもについての正しいケアの方法」ともか、ありそうですね。 今日なんかも、すごく暑くて、私などは、すごい汗かきでですね。もう毎年、夏になると、すごく、あせもが出来てしまうんですね。 それで、あるとき、石けんをたくさん、ぬって何度もシャワーを浴びていたら、ますます、ひどくなってしまった思い出があります。 つまり正しいケアの方法を、とらなかったから、ひどくなってしまったわけですね。 |
![]() 要約しますと、人生についての正しい考え方、それから、幸せについての正しい考え方、これは、ないだろう、と思うわけです。まあ、あったとしても、何を正しいかと考えるのは、人によって違うだろうと考えるわけですね。 一方、血圧の数字の正しい読み方、それから、あせもの正しいケアの仕方、これは、たぶん、あるだろうと思うのですね。 もちろん、血圧の数字をどう解釈するかというのは、個人の年齢とか、もっている病気とかによって事情は変わってくるのかもしれませんし、 あせものケアの仕方も、もともと皮膚の弱い人はどうかとか、いろいろ個人差はあるでしょうけれども、 まあ多くの人は、そういう正しいケアの仕方とか、そういうものがあるのではないかと、みなさん信じていると思うのですね。 そこで、本題ですよ。 じゃあ、悲しみについての正しい考え方とか、正しい悲しみ方とか、そういうものは、あるのでしょうか? |
![]() じゃあ、ここで問題を出させてください。「悲しみについて正しい考え方がある」「正しい悲しみかたがある」という考えかた、私は個人的には、どういう正しい悲しみ方などはないと思いますが、 もしも、そういうものがあるとしたら、それはどんな考え方だと思いますか?という問題です。 私は、いつも講演会では、10分ぐらいお話ししたら1分か2分、隣の人と話し合ってもらう時間を設けています。今回も、そうしたいので、少し1分か2分、隣の人と、お話しながら考えていただけますか。 はい、どうぞ。
はい、どうだったでしょうか。 たとえば「正しい笑い方」なんて、あるでしょうかね。 私は、落語で、こういうシーンを見たことがあるのですが。何か、落語家が「うちの女房は、たいへんな美人でしてね」というと、客席が、どっと笑ってね、 「あの、ここは、笑うところじゃないですから」とか、「落語でも、笑っていいところと、よくないところがあるんですから」なんて、落語家が言うわけですね。 つまり「正しい笑い方」を落語家が教えている。もちろん、これは笑い話として言っているわけですけどね。 |
![]() じゃあ、この本題に戻って「正しい悲しみ方」なんてあるのか? というと、こう考えるとわかりやすいですよ。 「正常な悲しみ方」と言い換えるとどうですか。 「正常」というのは、常に正しいものを「正常」というのであって、常に正しい悲しみかたが、すなわち「正常な悲しみかた」なんですよ。 で、そういう「正常な悲しみかた」というのが、あるんだと、主張している人がいますよね。これこれ、こういう悲しみ方が、正しくて正常なんだ、と言っている人がいるわけですよ。 そして「正常な悲しみ方がある」ということは、もういっぽうで、「異常な悲しみ方」がある、ということですよ。 つまり、悲しみ方には「正常な悲しみかた」と「異常な悲しみかた」があって、そして「異常な悲しみかた」をしている人には、援助をしてあげて、 「正常な悲しみかた」「正しい悲しみかた」をするように、「正しい悲しみかた」ができるように手助けしなければいけないと、それが、グリーフケアじゃないんですか。 どうでしょう。ちがいますかね。 最近、田中さんが、ちょっと目の敵みたいにして言っている概念に「複雑性悲嘆」という言葉があります。複雑な悲嘆、複雑な悲しみということですね。 ネットにも載っていました。だいたい6ヶ月以上、悲嘆が続くと、それは「複雑性悲嘆」と呼ばれるそうです。そして、それは治療の対象になるのですね。 なぜなら、それは治療者から見れば、「異常な悲しみ方」だからですよ。 そういえば、こちらの遺族のかたが、おっしゃっていましたが、あるお医者さんが、自死防止のシンポジウムかなにかで、 「半年たっても悲しみから回復していなければ、それは病気なんだから、異常な状態なんだから、治療しなければいけない」と言ったとかで、 遺族のかたが、とても怒っていらっしゃいましたね。半年で回復なんかできるわけがないだろう、と。 だいたい、そもそも回復なんて、ありえないんだ、と、その一人娘を亡くされた遺族のかたは、おっしゃっていました。 でも、グリーフケアをやっている人から見れば、そういう人こそ「異常」で、「異常な悲しみかた」「間違った悲しみ方」をしている人であって、 援助が必要な人だということになってしまうわけですね。 でも、誰に、どんな権限があって、悲しみに「正常なもの」と「異常なもの」とがあるなんて言えるんでしょうか。 どんな権限があって、他人に対して「ちょっと、すみませんが、あなたの悲しみかたは、間違っています」なんて言えるんでしょうか。 「いやいや、このグリーフケアというのは、科学的に研究が進んでいるものなんですよ」とか、 「複雑性悲嘆は、どこそこの大学で研究されて、いまや欧米では確固とした理論が作られているんですよ」とか、 人は、言うかもしれません。 いろいろ勉強している人ほど、言うでしょうね。 そう言われたとき、どう反論したらいいか。 |
それは、簡単です。「科学は、価値観に、かかわらない」ということです。 どういうことかというと、いくら科学が発展しても、いいとか、悪いとか、そういう価値観にかかわることは、科学は証明することもできなければ、関係することもできないということですよ。 たとえば、いくら科学が発展しても、私が、いまやっていることが、正しいことなのか、正しいことではないのか、それは証明できない、ということですね。 科学というのは、ありのままの現実の状態を実験とか調査で明らかにするのですね。 それに対して、価値観というのは、ありのままの「こうである」という現実というより、「こうあるべき」という理想にかかわるものですよね。現実の一歩先のことにかかわるのが、価値観なんですよ。 だから、科学は価値観にかかわらない。 たとえば、重病人の人がいて、いま、この人に延命処置をするべきかどうか、いま、そういう処置をしても苦しむ時間が長引くだけではないか、いや、それでも少しでも生きていたほうがいいのではないか、 そういう問題は、いくら医学が発達しても、わからないでしょ。それは価値観の問題だからですよ。 同様に、悲しみかたに「正しい悲しみかた」と「間違った悲しみ方」があるのか、というと、それは、基本的には、悲しみをどう考えるかという価値観の問題だと思うのですね。 だから、他人から「あなたの悲しみかたは間違っている」とか、「異常だよ」とか言われる筋合いは、どこにもないわけですよ。 ただ、ここでトリックがあるんですね。 「異常だ」とか「間違っている」と言うかわりに「病気ですよ」というわけですよ。 そうすると価値観の代わりに、医学という非常に権威のある科学的な見識といいますかね、そういうものに裏付けされたもののように聞こえてくるんですね。 |
![]() じゃあ、また、ここで問題です。 グリーフケアの専門家たちは「長く続く悲しみ」を「病的な悲嘆」と呼び、そこからの「回復」が必要だ考えているようです。その考え方が、なぜ、多くの遺族を怒らせているのか、その理由を考えてみてください。 「多くの遺族」であって、「すべての遺族」ではないですよ。 ただ、少なくとも、こちらの田中さんとか、その周りの遺族の方は、「悲嘆からの回復プロセス」なんていう話は、大嫌いなんですね。 それは、どうしてなんでしょうか。 もともと怒っておられる遺族の方は、そのまま、そのお気持ちを話していただいてけっこうですが、みなさんのなかには、グリーフケアに関心をもち、勉強されてこられたかたも、きっといらっしゃると思うのですね。 そういう方に、ぜひ考えてもらいたいのは、「悲嘆回復のプロセス」とか「何年も続く悲しみは、異常だ、病的だ」というグリーフケアは、特に自助グループに集う遺族たちを、怒らせているということ、 いったい、それは、なぜなんだろう?と考えてもらいたいわけですね。 じゃあ、どうぞ。
はい、どうだったでしょうか。 いろんな理由があると思いますが、ひとつは、自死で愛する人が亡くなってしまった。その悲しみが、続く。ずっと続いていく。 それは、当たり前じゃないか、親として、家族として、当然じゃないか、そういう気持ちが、遺族のかたのなかにあるんだと思いますね。 「ずっと悲しみが続いています」というと、グリーフケアの立場からいうと、それは「回復していない」ということになりますね。 だから「じゃあ、私たちのグリーフケアを受けてください。そうしたら、回復できますよ」と言われる。 それは、一見、優しい思いやりのある言葉のように聞こえますが、よく聞くと、そうではないですね。 「いまのあなたの状態は、病気ですよ。いまのままでは、ダメですよ」というように、いまの状態を否定する言葉なんですね。 あるお父さんが、一人娘を自死で亡くした。それで「もう回復はありえない」と、おっしゃる。 それに対して、グリーフケアの人たちが「いえいえ、回復できますよ。私たちがお手伝いしますよ」という。 「いや、そんな、回復なんてありえない」と、やっぱり遺族のかたが言うと、 「大丈夫です。私たちは専門の勉強をして訓練も受けてきましたから、私たちを信頼して、私たちの回復のためのグループに参加してください」と、グリーフケアの人たちが励ます。 そこに、何か気持ちのすれ違いが、あるんですね。つまり、グリーフケアの人たちから見ると、苦しんでいる人がいて、その人たちを助けたい。 そして自分たちは、その苦しみから逃れる薬をもっている。そして、その薬を使ってほしいと差し出しているのに、 苦しんでいる当人は、何かを恐れているために、その薬を手にする勇気がないんだ、と。 たぶん、そういう発想じゃないんでしょうか。ですから、何度も何度も小さな子どもを励ますように、「ねえ、グリーフケアを受けてみましょうよ、きっと回復できるから」と、 呼びかけているんだろうな、と思うんですよ。 でも、遺族の気持ちは、ちょっと違うと思うんですね。 |
じゃあ、その遺族の気持ちは、どう理解すればいいのだろうか、遺族の人たちの立場からすると、じゃあ、どのように自分たちの気持ちを表現すればいいのだろうか、という問題になりますね。 そこで出てきたのが、今回の講演のサブタイトルにもありました、「悲しみは、愛しさとともに」という言葉なんですね。
「悲しみ」は「愛しさ」と、<ともに>というと、なんか二つのものが、並んであるような感じがするかもしれませんが、そうではなくて、
悲しみと愛しさとは一体なんですね。悲しみと愛しさとは、一つのもので、分けることができない、そういうことなんです。
だから「悲しみが無くなる」ということは、「愛しさが無くなる」ということで、これは絶対にありえない。
悲しみからの回復、悲嘆からの回復をいい、「長引く悲嘆は病気だよ」というメッセージは、 悲しみを、どうしても否定的にイメージしているでしょ。 悲しみとは、愛しさだ、という肯定的なイメージがないですよね。 |
たとえば、手に深い傷ができたとしますね。その傷をすぐに消毒すれば良かったのだけれども、きちんと処理しなかったために、 傷が膿んできた、と。その膿のために、ますます痛くなって、熱も出てきた、と。 そんなとき、みなさん、どうしますか。 膿を出すしかないですね。皮膚を、カッと切り開いて、膿を出すしかない。 一時的には、それは痛みますけれども、放っておいたら、いつまでたっても直らないし、もっと悪くなるかもしれませんよね。 だから、思い切って、ナイフで切って、膿を出す。 出したら、臭くて、汚い膿が、どっと出て、そして、その傷も治る。 これが、傷と膿の「ストーリー」なんですね。 実は、これと全く同じストーリーを心に当てはめているのが、グリーフケアなんですよ。 まず、愛する人が亡くなった。それで、心に大きな傷ができますよね。 トラウマができる。トラウマというのは、心の傷と訳されているように、やっぱり傷なんですよ。 そういう心の傷は、身体の傷と同じで、傷がついたときに、すぐに対処すれば、あとあとの経過がいいと、多くの心理学者たちは信じています。 でも、自死の場合は、直後の場合は、いろいろ複雑なことがあって、そんなことは、ほとんど行われないですよね。 だから、身体に傷がついたときに、すぐに適切に対処しなかったら膿んでしまうのと全く同じように、 心の傷も、適切に対処していないから、心の奥に深い悲しみが沈んで、それが膿のようになって熱をもって、その人の心全体を苦しめていると考えるわけです。 じゃあ、どうすればいいか。 皮膚を切り裂いて膿を出すように、心を一時的にでも切り裂いて、心の奥に「膿」のように溜まっている「悲しみ」を吐き出させるわけですよ。 そうすると、すっきりして「回復する」という、そういうストーリーなんです。 どうでしょう。 身体の傷と、その回復という「ストーリー」と、 心の傷と、その回復という「ストーリー」、ほとんど同じでしょ。 え? 同じなんだ、って、驚かれました? これって、はたして偶然なんでしょうか。
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心をめぐる科学というのは、心って、目に見えないでしょ。実態がないものじゃないですか。 そういう実態がないもの、目に見えないもの、形がないものを、どうやって研究するのか?というと、 身近な、なにか具体的なものをモデルにしてね、それでイメージをつくってから、仮説をつくって、そして実験をしながら、データをはりつけていって、 そのモデルが、あたかも客観的に実在しているかのように発展させていくわけですよ。 だから、身体の傷とその回復という流れ(ストーリー)と、心の傷とその回復という流れ(ストーリー)が、まるで同じだとしても、それは驚くことではないんです。 なぜなら、それは、身体の傷とその回復の仕方をイメージしながら、この心の傷とその回復を学者たちは、考えてきたんですからね。 だから、話の流れがいっしょなのは、ごく当たり前、当然のことなんですね。 こういうことは「科学の歴史」、つまり「科学史」という本のなかでは、普通に書かれています。 心とか精神とか、目に見えないもの、形のないものの学問というのは、目に見えるなにかをモデルにして科学的な実験をしてデータを積み上げていくのであって、 大事なことは、そのモデルから出てくるいろんな現象は、実験とか研究で証明できますけれども、 モデルそのものが正しいか正しくないかは、実験とか研究では証明できないものなんです。 |
![]() ここまでのお話をまとめて、遺族の自助グループとグリーフケアのありかたを比べてみますと、 悲しみは自助グループで「愛しさ」と、とらえるわけです。 それに対して、グリーフケアは「悲しみ」は一種の「心の膿」のようなものと考えるわけですね。 そうなると、悲しみを、どうするか、どう悲しみと向かい合うのか、という姿勢も違ってくる。 自助グループは「悲しみを抱いて生きる」という姿勢になります。 なぜなら、悲しみは、愛しさ、愛なんですからね。家族への愛を心に抱きながら生きる。これは家族として、ごく自然なことですよね。 それに対して、グリーフケアは悲しみを「心の膿」のようなものと考えるわけですから、当然「吐いて捨てる」ということになります。 こうやってみると、ずいぶん違いますよね。 さて、ここで問題です。 この二つの「悲しみ」へのアプローチの違いについて、思うことを自由にお話しください。 ということなんですが、じゃあ、また少しお話していただけますか。 はい、どうでしたでしょうか。 この二つの「悲しみ」へのアプローチ、ずいぶん違いますね。 片や、愛しさ、愛ですよ。でも、片や、膿ですよ、臭くて汚れた膿ですね。 グリーフケアの人たちは、よく「ケアする人のケア」が大事だと、おっしゃいますでしょ。 あれが、わからない!と、おっしゃる遺族のかたがいらっしゃいますね。 自分たちは遺族の話を聞いて、元気になれる、これからも生きていこうという気持ちになれるのに、 グリーフケアの人たちは、遺族の話を聞いたら、あとで自分たちにもケアが必要になってくる、というのですね。 どうしてでしょう。 その理由は、この表を見て、わかりませんかね。 グリーフケアではね、悲しみは「心の膿」のようなものなんですよ。 だから、吐き出せるのでしょ。だって、大事なものは、吐き出せないですよ。 |
心のことは、目に見えない形のないものだから、目に見えるものをモデルにして考えていくのだ、というお話をしました。 この場合は「吐き出す」という光景をイメージしてください。 どうでしょうか。汚いでしょ? どんなに、きれいな人でも、その吐いたものは、汚いですよ。 私は、先日、電車に乗ったら、もう空いている席がなくてね、ああ、またずっと立っていなくちゃいけないのかな、と思ったら、 ふと、ちょっと離れた席が、空いているんですよ。ああ、ラッキーと思って、その席にいったら、誰も座らないはずですよ。 そこで、誰かが吐いたあとあるんですね。酒にでも酔っていたんですかね。もう、嫌なにおいがプーンとしてね。 食べたものらしきものが、そこらへんに散らばっていてね。 ヘドが出るっていいますね。吐くというのは、ヘドが出る、ということですよ。 ゲロが出る、とも言いますけどね。 自助グループでも、ときどき変なことを言う人がいるんですよ。 「みなさん、気持ちを吐き出して、分かち合いましょう」って。 でもね。吐き出したものは、分かち合えませんよ(笑)。 ゲロで出したものを、分かち合えるはずがないでしょ。 分かち合うというのは、こころのなかの大事なものを分かち合うんですよ。 悲しみは、愛しさであり、愛だからこそ、分かち合えるのですよ。 グリーフケアに限らず、心の治療のグループではね、グループのセッションが終わったら、それで解散、 それで、お互いに会わないようにしているというところが多いです。 なぜか。 それは、そのグループは、基本的には、心の膿のような汚れたものを、吐き出して捨てるという場になっているからですよ。 いっしょに、ゲロゲロ吐いて、すっきりした、と。 だったら、もう、そのゲロを吐いていたころなんて思い出したくないし、自分の吐いたゲロを見ていた人にも、会いたいとは思わないと思うのですね。 だから、一日のグループが終わったら、それで解散。次の集まりまでに互いに連絡をとる、ということもない、というのは、 グループは、心の膿を吐いて捨てる場にすぎなんだから、連絡をとる必要もないわけですよ。
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そう考えると、グリーフケアのスタッフにケアが必要だ、というのは、よくわかるでしょ。 ずっと、人の吐いたものを処理しないといけないんですよ。臭いはすごいだろうし、たいへんな仕事ですよね。 セッションが終わったら、もう頭が痛くなったというのも、当然だと思うのですよ。 なんか、ずいぶん下品な話をしていると、思われたかたもいらっしゃるかもしれませんが、 「吐き出す」というイメージも汚いですが、 もともとの英語の意味は、もっともっと汚いんです。 これは、私、アメリカで何年かカウンセリングを学んできたという人から、直接、聞いた話なんですけどね。 この「気持ちを吐き出す」と日本語で、訳されている「吐く」という言葉は、英語ではdischarge(ディスチャージ)というんです。 で、このdischargeというのは、どういう意味かというと、実は「排泄する」という意味なんですね。ウンチとか、オシッコとか、ああいうレベルの話なんですね。 「気持ちを吐き出して、すっきりした」というのは、「ずっと長い間たまっていた便が、トイレで、どっと出てすっきりしたという、そういうことなんだ、それがdischargeだ」と、 そんなふうに、アメリカの偉いカウンセラーの大先生から教わったと、私の知っている先生がおっしゃるので、えーそうなの?って、私も初めて聞いたときは、びっくりでしたね。 とにかく言いたいことは、グリーフケアで「気持ちを吐き出す」というときは、日本語的にいえば「ゲロッと吐く」イメージ、英語でいえば「discharge」つまり「排泄」のイメージで、 いずれにしても、何か心の清らかな部分を出すわけではなくて、人間の汚れた、汚いものを出す、体内の毒になっているものを外に出す、 悲しみというのは、心の毒なんだから、それを外に出すというイメージなんですね。 それを扱うんだから、グリーフケアのスタッフには、それこそケアが必要なのは当然だし、訓練も必要でしょうね。 でも、自助グループは、悲しみを、そうはとらえていない。愛しさとして、とらえているんですね。かけがいのない思いと一つなんですね。 そこに、大きな違いがあるんです。 |
![]() それから、もうひとつ。 これは、つい数日前、ある本に書いてあったことで、「ああ、そうだったのか」と驚いたことがあるんですね。 それは、グリーフという言葉の意味です。 ある本によると、グリーフとは、もともと英語ではemotion(エモーション)だというのですね。 で、emotionとは、強い心身の動揺を伴うような強い感情と書いてあります。 人間の心の働きを「知情意」という3つに分けることは、みなさん、よくご存じだと思いますが、 知性と、感情と、意志という3つの心の働きですね。 そのうちの「情」の部分、「感情」の部分だけにかかわるのがemotionだ、というのですね。 ところが、英語圏以外の文化では、グリーフは、この「感情」以外に、たとえば「知性」と結びついている場合もあると書いてあるんですよ。 これはね、私は、びっくりしてしまいました。 まさに、目からウロコ、という感じでしたね。 |
![]() じゃあ、ここで、最後の問題を出させてください。 英語でいう「グリーフ」とは、emotion(しばしばコントロールできない混乱した感情)のひとつという意味しかもたないようです。 「悲しみは、愛しさ」というときの「悲しさ」とは大きな違いがあります。 英語のグリーフと日本語の「悲しさ」「悲嘆」の違いについて考えてみてください。 ということなんですが、また、ちょっと考えていただけますか。 はい、どうぞ。 はい、どうでしたでしょうか。 私はね、英語でいうグリーフが、Emotionつまり「動揺する、混乱した感情」という意味しかないんだ、ということを知ったとき、 そういうことが、さっき紹介した本に書かれてあったのですが、 非常に、驚きました。 みなさん、驚かなかったですか? |
グリーフケアでいう、「グリーフ」というと、もっと、底の深い、人間の生と死にかかわる、宗教的な深い概念と思っていませんでしたか? 私はね、そう思っていましたよ。 「グリーフケア」という本に、シスターの写真があったりするとね、なんというか、厳かなというか、哲学的な、宗教的な、思想的な、人間の奥深くの神秘に触れるような、グリーフというのは、 そういう奥深い意味の言葉だとばかり、思いこんでいました。 たぶん、私のように誤解している人は多いんじゃないでしょうか。 グリーフケアのボランティアの講習会というと、すごく人が集まると聞いたことがあるんですけど、そういう人は、グリーフケアの「グリーフ」というのは、すごく深い意味をもった言葉だと、 やっぱり、いままでの私のように誤解しているんじゃないでしょうかね。 ところが、英語でいうグリーフというのは、emotion、感情でしかないんですね。 Emotionというのは、良い意味で使われることもなくはないんですが、悪い意味でもよく使われる言葉なんですね。 たとえば、ついカッとなって怒ってしまった、怒っちゃいけないのにね、ムカッとして怒鳴ってしまった、と。これ、emotionの典型ですね。 それから、何かの会議のときに、しっかりしないと発言しなければいけないのに、泣いてしまって言葉にならない。あるいは、怖くなって、青くなってしまって黙ってしまう、なんていうのも、emotionですよ。 つまり、コントロールが効かなくて、頭のなかが混乱してしまってというのが、emotionなわけで、英語でいうグリーフというのは、そういう意味でしかないっていうことは、 私にとっては、非常に大きな驚きでした。 だったら、グリーフケアがあっても、それは当然じゃないか、つまり、そういう混乱した感情を吐き出す場、それこそdischargeする場、つまり「排泄する場」があっても、それは、それでいいんだろうと、思うわけですよ。 |
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問題は、そのグリーフを、悲しみとか、悲嘆とかに、訳してしまったとき、意味のずれが起きてしまっているのではないかな、ということですね。
日本語の「悲しい」という言葉は、非常に深い言葉なんですよ。
そんなグリーフみたいな、単なるemotion、感情ではないんですよ。 「悲しい」という言葉の、もともとの形「かなし」という言葉を古語辞典で調べてみますとね、こういうことが書いてあるんです。 「かなし」というのは、愛と、悲劇の悲、哀愁の哀という字と、三つの漢字が当てられているのですね。 それで、この「かなし」という言葉の意味について、辞書には、こう書いてあったんですね。 あるものに対する思いが強く、胸に迫るさまを表す。自然に対しては深く心を打たれる美的感動の心を表し、人間に対しては、肉親や男女間の愛情、死や別離に伴う悲哀の情などを表す。. . . 「愛しい(=いとおしい)」から「悲し」という変遷をたどるのではなく、「愛情」と「悲しみ」の心は根っこのところではつながっている。 どうですか。すばらしいことを書いてくれていると思いませんか。 「愛情」と「悲しみ」の心は根っこのところではつながっている。 これ、本当に、こう書いてあるんですよ。この講演のために、ねつ造したんじゃないですからね。 その証拠に、本のページ数まで書いておきました。この辞書、ブックオフで105円で買いました。 105円の辞書に、こんな良いことが書かれてあるんですね〜! |
![]() 今日、みなさんのお手元に、明石書店から出たばかりの「会いたい」という本が届いていると思いますが、 まだ、買っていないかたは、ぜひ、受付で買っていただきたいと思いますが、 その第3章が、悲しみは愛しさ、グリーフ・イズ・ラブというタイトルになっているんですね。 さっきも、申し上げたように、英語のグリーフというのは、emotionの意味しかない、混乱した感情という意味しかないんですね。 だから、ある意味「グリーフ・イズ・ラブ」なんていうのは、ちょっと矛盾がある言葉になってしまいますが、 私たち日本人が、グリーフを、もっと豊かな言葉にしてもいいと思うのですよ。 さっきお話しましたが、世界の言語のなかには、グリーフを、感情だけではなくて、知性というか考え方とセットにしてとらえている場合もあるんだ、という研究結果を紹介しましたが、 日本の文化のなかでは、グリーフは「悲嘆」とか「悲しみ」とかに訳されるのでしょうけど、 同時に、悲しさというのは、愛しさに通じるんだ、愛に通じるのだ、という考え方を、 日本の遺族の自助グループから広げてもらったら、それこそ本当に多くの、世界中の遺族にとって力になるかもしれませんよね。 愛というのは、もちろん混乱した感情ではないわけですね。愛には感情は伴いますが、同時に知性も、そして意志も伴うものです。 愛があるからこそ、いろいろ考えるわけでしょ。そして、愛があるからこそ、強い意志をもって生きていくこともできますよね。 「会いたい」の本を読むと、自死で子どもさんを亡くされたあと裁判で闘わなければいけないという、たいへん厳しい状況のなかにおられる遺族も、いらっしゃいますね。 そういう状況のなかで強い意志をもって闘うことができるというのは、やはり強い意志があってのことでしょうし、そこには、亡くなった子どもさんへの愛しさ、愛があるのだと思います。 どなたでしたかね、遺族のかたがおっしゃっていたような記憶があるのですが、 「悲しみの力」という言葉を言われた人がいました。 その場合の「悲しみ」がemotionという、単なる感情なら、そこに力なんて、あんまり無いと思うのですね。 悲しみに力があるのは、その悲しみが「愛しさ」であり、愛だからなんですよね。 悲しみには、それだけ深い意味があるんです。 今回の講演の最初に「正しい悲しみ方」というのが、あると思いますか?という問いかけをさせてもらいましたが、 正しいとか、正しくないとか、正常だとか、異常だとか、あるいは、病的だとか、判断されるべきものではないし、 何段階かの回復のステップだとか、そんな単純なモデルに当てはまるようなものじゃないんですね。 「悲しみ」というものには、千年以上の日本の歴史と文化にはぐくまれた深いものがあるのではないかなと、私は思っています。 最後に、この「会いたい」から少し引用してみたいと思いますが、これですね。 私から「悲しみ」や「愛しさ」を消そうとしないで下さい。 私の大切な人のことを忘れさそうとしないで下さい。 愛する人を失った悲しみは、故人への愛しさだと感じています。 こういう遺族の言葉に、グリーフケア関係者がよく耳を傾けていただければ、 遺族の自助グループの「悲しみ」についての考え方の理解が広がっていくのではないかと思います。 ご静聴ありがとうございました。 |
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