量子力学の哲学的考察

第一部 量子力学と時間

田中 裕

1.量子力学と経験の可能性の諸条件

 

 現代物理学の基礎に関する数多くの哲学的な著述のなかでも、C.F.ヴァイツゼッカーの著作ほど、ニールス・ボーアやハイゼンベルグに由来する草創期の量子論の精神を継承しつつ、そこに内在する哲学的課題を担いつづけたものは少ないだろう。物理学者の実験室での現場感覚が、自然の全体性と統一性を指向する哲学的精神と結合することは稀にしか生じないが、ヴァイツゼッカーの主要な著作を読むものは、そこに、カントの『純粋理性批判』やその姉妹編として構想された『自然の形而上学』の伝統が復活し、この認識批判の伝統が、現代物理学の諸成果を前に新しく展開されているという印象を禁じ得ない。量子論のいわゆるコペンハーゲン解釈を哲学説としての実証主義と同一視することを拒むヴァイツゼッカーは、『いかにして量子論が経験の表現となりうるか』という『ボーアの問題』を彼の科学哲学上の著作の主要課題としている。統一理論を志向する現代物理学の趨勢を踏まえたうえで、彼は単なる実証主義的経験論の与える断片的自然像と多元主義に満足せず、『物理学の基礎的かつ一般的な洞察は、ただ経験を可能ならしめる必然的な制約を表現する限りにおいて、経験において事例化される(AP24)(2)』というカント的な視点を採用する。この発見術的推測(heuristische Vermutung)のもとに、量子力学を中心とする現代物理学を歴史的な発展の文脈から切り離し、人間の経験の可能性の一般的根拠を反省することによって、その基礎範疇をどこまで再構成できるかという試みがなされている。我々がとくに注目するのは、この再構成の基礎にある彼の時間論理とそれに基づく確率解釈が量子論の哲学的解釈の中心的な部分をなしている点である。ヴァイツゼッカーによれば、自然にかんする科学を、没時間的な永遠の観点をとる古典論理を前提する確率論と古典物理学的な因果律によっては基礎づけることは、本来許されないのである。従って、量子論のもつ哲学的な意義は、自然に関する我々の認識の真の意味でのアプリオリな条件が何であったかということを明らかにすることによって、古典物理学の独断の微睡みから我々を覚醒させた点にある。従って、ヴァイツゼッカーを単に量子論理の唱道者の一人と見ることは誤っているだろう。彼にとっての関心事は、微視的世界にだけ通用する特殊な論理の一形式なのではなく、古典論理では不問に付していた論理法則の適用の諸条件と制約を自覚させる包括的な哲学的立場であり、ちょうどリーマン幾何学がユークリッド幾何学を排除せずにそれを特殊として含む普遍であるように、古典論理の形式を絶対視する立場を越える普遍性の探求を、経験の可能性の諸条件のうちに求めることが彼の課題であったからである。

  ヴァイツゼッカーは、アリストテレスにまで溯る時間と様相概念を結合する伝統に従い、未来時制の命題は真理値をもたぬこと、ただ必然性(確率 p=1)、偶然性(0<p<1)、不可能性(p=0)のごとき様相を伴う場合に限り、未来時制の命題を主張できると述べている。彼にとって、過去の事実性、現在の直接性、未来の可能性は経験の最も普遍的な条件であり、確率の概念は未来の可能性の概念を数学的に精密化したものである。確率の数学的な公理系では、未来と過去の非対称性は言及されないが、確率論が物理的に意味をもつのは、この非対称性が前提された場合に限るというのが、ヴァイツゼッカーの確率論解釈の基礎である。彼は次のように明言する。

未来は《可能》であり、従って本質的に未知であり、それゆえに、我々は未来の出来事には客観的な確率を付与することができる。過去は《事実》であり、原則的には人はそれを知ることができ、また、多くの場合それは既知である。ある過去の出来事の確率が意味しているのは、主観的な無知に過ぎない。(EN238)

このように過去の推測と未来の予測の本質的な相違の強調は、彼が熱力学の第二法則から時間の方向性の結論することに反対する文脈において現れたものであるが、それは彼の所謂『時間論理』とも密接に関係している。時間の中で経験する我々が、あたかも時間の外側に出て永遠の観点のもとに物理的対象の運動について語り得るかのような世界像が古典物理学のなかでは批判されずに放置されていたが、この世界像が没時間的な論理の無制限の使用に由来する独断にすぎないことを指摘するものがヴァイツゼッカーの言う意味での『時間論理』なのである。それゆえに、ヴァイツゼッカーの科学哲学では、我々の日常的な時間経験の中で前提される時間の三重構造、すなわち過去の事実性、現在の直接性 (行為と選択の場)、未来の可能性、が量子論を基礎とする物理学全体の前提となっているといってよかろう。『物理学が経験科学でありうるためには時間に関係しなければならないという要請だけから、どれだけ多くのことが結果するかを見つけ出す試み(EN241)』こそがヴァイツゼッカーの科学哲学のライトモチーフといってよかろう。彼の方法がカントの認識批判の伝統を踏まえたものであることは既に指摘したが、それは彼が量子論の創始者であるボーアの言う『因果性と時空記述の相補性』をめぐる議論を、時空直観と因果性のカテゴリーの関係を主題とするカントの超越論的分析論になぞらえていることからも明らかであろう。

 人間の知識の最も普遍的でかつ必然的な制約は、時間経験によって与えられることが、ヴァイツゼッカーの基本的な哲学的立場である。我々は、以下において、時間の実在性という哲学的に最も困難な問題のひとつを取り上げるが、この問題は経験の可能性の諸条件から現代物理学の基礎的範疇を導出するという立場から当然論じなければならないであろう。ただし、これは公刊されたヴァイツゼッカーの著作の中で十分に論じられはいない。彼の哲学上の主著ともいうべき『時間と認識(Zeit und Wissen)』では、当然この問題が論じられることが予想されるが、これは1988年に刊行が予告されたにもかかわらず、残念ながらまだ出版されていないので参照するわけにいかない。それゆえに、ここでの議論は、ヴァイツゼッカーの批判というよりは、公刊された彼の著作ではまだ解決されていないと思われる問題を、それ自身として考察することである。それは、ヴァイツゼッカーの立場では、量子力学の基本原理の一つである不確定性原理が必然的に《未来の不確定性》に制限される事になるが、その立場を貫徹することによって量子論のすべての現象を首尾一貫して説明することが出来るかという問題である。言い換えれば、現代物理学の基礎にある量子論は、我々の日常的な時間経験で前提している《過去の確定性ないし事実性》という原理とは矛盾する世界を我々に開示しているのではないかということである。これを重要な問として認めたうえで、ニールス・ボーアの相補性の立場を手懸かりとして、この問題に対して如何なる応答を為し得るかを検討することが以下の議論の主題である。それは、不可視の微視的世界を主題とする量子力学が、我々の『人間的経験の表現』としての科学という枠組みの限界に触れていることを確認することにほかならない。カントの認識批判の文脈に即して言うならば、量子論は単に超越論的分析論の議論の対象になるばかりではなく、それを越えて、超越論的弁証論の主題になるような種類の事柄にコミットせざるを得ないであろう。 このようなカントの認識批判の精神を貫徹する問いかけこそ、量子力学の宇宙論への適用が真剣に考慮されている現代物理学にたいして、哲学の側から問うことのできる最も根本的な権利問題の一つであろう。

 

二 不確定性原理と時間

 

 量子論の不確定性原理をヴァイツゼッカーは、彼に決定的な影響を与えたハイゼンベルグと同じく、基本的に未来の不確定性を意味するものとして了解している。その原理は、現在入手し得るデータをもとにして、物理系の未来の状態を我々人間が一意的に予測することはできないということを主張するからである。我々のなし得るのは、実験結果の統計的分布によって経験的に検証可能な確率予測のみであって、個々の物理系の未来を確実に予測することはできない。このような意味での未来の不確定性は、今日ではヴァイツゼッカーのみならず量子力学の完全性を認める大多数の物理学者に共通の了解事項となったといってよかろう。例えば、半透明の鏡に入射した光子が通過するか反射するかという未来の振舞を予言するという問題を考えてみよう。古典物理学では、それぞれの光子の未来は、原理的には現在決定されているはずだという立場をとる。かりに我々に事実上許されているのが統計的な予測に過ぎないという場合でも、統計的な確率的理論そのものが原理的な決定論を前提したうえで組み立てられている。このような立場に対して、粒子の集団についての初期条件に関する我々の無知に起因する確率だけではなくて、基本的な物理法則の解釈そのもののなかに確率論を組み込んだ量子力学は、原理的な非決定論を主張している。そこでは、我々に許されるのは光子の集団に関する統計的な予測のみであって、個別的な予測は断念しなければならないということが不確定性原理の帰結のひとつである。この原理の提唱者であるハイゼンベルグは、『量子論の物理的基礎(1930)』のなかで、不確定性原理の適用を未来にのみ制限すべき理由について、次のように述べている。 不確定性関係は、過去には関係しないことを注意しておこう。もし始めに電子の速度が知られていて、その後で位置が正確に測られたとすると、位置の測定よりも以前の時刻に対してもまた、電子の位置は正確に計算出来よう。そうするとこのような過去に対しては、△p・△qはいつもの限界の値よりも小さくできる。しかし、過去に関するこの知識は、純粋に思弁的な性格のものである。なぜなら、それは(位置の測定の際の運動量の変化のために)電子の将来にかんするどんな計算にも初期条件として入っていくことができず、一般にどんな物理的な実験にも現れて来ないからである。したがって、電子の過去に関する上述の計算に何らかの物理的実在性を与えるかどうかは、純粋に趣味の問題に過ぎない。(3)

 右の引用のなかで彼は、過去の確定性という常識に従って、不確定性関係を破るような過去の状態記述を考えることが可能であることを認めたうえで、そのような『純粋に思弁的な』想定は、未来の予測のための初期条件として役立たないから、物理的な意味はないと述べている。 不確定性原理を提唱した当時のハイゼンベルグにとっては、実験的に記録された初期状態から実験的に確認可能な終期状態の予測目録と確率分布を与える数学的理論のみが意味のあるものであり、中間の諸状態を記述することは無意味なのであった。しかしながら、量子論の完全性を容認したうえで、一方において過去はあらゆる意味において確定しているという常識を保存しながら、他方において現在から未来を予測することが原理的に不可能であるという意味で、未来のみが不確定であると主張することは、果たして正当化されるであろうか。さきの例で言えば半透明の鏡を通過したか反射したかが知られていない光子を、その後に適当な観測装置で捕捉することによって、それが過去においてどのような履歴をたどったかを推測する場合、その光子の過去の履歴は観測者ぬきで確定していたはずだと言い得るであろうか。もしそれが言い得ないというのであれば、量子論は、実際には未来の不確定性のみならず過去の不確定性をも含意することを認めなければならないのではないか。

 量子力学の批判者としてのアインシュタインは、このようなハイゼンベルグの主張、特に不確定性原理の適用を未来にのみ制限して、過去の不確定性という常識に反するように見える観念に量子力学がコミットしているわけではないという議論を認めなかった。『量子力学における過去と未来の知識』という論文のなかで、彼は二つの粒子の一方について過去の確定性を仮定すると他方について未来の不確定性が主張できなくなることを示す思考実験によって、『量子力学の原理は、未来の事件を予言する際の不確定性と同じような不確定性を、過去の事件を記述する場合にも実際に含んでいる』と結論した。(4)この議論は、彼が四年後にポドルスキーとローゼンとともに発表した『物理的実在についての量子力学的記述は完全であると考えることができるであろうか』という有名な論文(所謂EPR論文)と同様に、量子力学の完全性の仮定が逆説を生むことを示す帰謬法によって、量子力学の不完全性を示す議論として理解すべきであろう。すなわち、アインシュタインは、過去の不確定性という概念の必要性を積極的に説いたのではなく、量子論の完全性を主張する物理学者を批判する彼自身の議論の文脈のなかでそれを示したのである。


量子論の唱道者たちが長い間無視したアインシュタインの論点は、約半世紀をへた後で、アメリカの物理学会の会長を務めブラック・ホールの命名者としても著名なホィーラーの所謂<遅延選択>の実験に関する解釈の中で復活することになった。(5)後に現実に遂行されたこの実験では、アインシュタインの思考実験のような二粒子系のかわりに、一粒子が半透明の鏡を通過または反射することによって、その可能な経路が分岐した後で、その粒子の位置を測定する実験が考察された。それは、量子力学の不完全性の証明という文脈の中ではなくて、反対に量子力学の完全性を認める立場からの考察であって、半透明の鏡とどのように相互作用したかという意味での粒子の過去の履歴は動かしがたく実在するのではなくて、観察者(observer)であるとともに参加者(participant)でもある実験家の行為によってある意味で一挙に制作されることが寧ろ積極的に主張されることとなった。


B C

 

S A D



E

F 

この実験では、上図でSの位置から一個の光子が半透明の鏡Aに斜めに入射する。半透明の鏡Aは実験によって50%の確率で光子を通過させ、50%の確率で光子を反射することが分かっているものとする。光子は従って、Aで反射して、更に鏡BCでも反射して、経路 SABCFを通るか、またはAを透過して経路SAEを通るかいずれかであろう。そこでEの位置とFの位置に光子の検出器をおけば、それぞれの検出器が光子を捕捉する確率は五分五分となるであろう。古典物理学においては、我々がEまたはFで光子を捕捉するしないにかかわりなく、光子の過去の経路は確定していると考える。従って、もし我々がEで光子を捕捉したならば、その光子はAを透過したと推論できる。同様に、もしFで光子を捕捉したならば、その光子は鏡A,B,Cで反射したと推論できる。古典物理学では、一つの光子の履歴はただ一つでありそれが複数の履歴をもつなどということは考えられないからである。しかしながら、このように光子の過去の経路が確定していると仮定すると、説明のつかない現象が生じる。

例えば、光子の通りうる二つの可能な経路が交差する場所Dに、Aと同様の半透明の鏡を設置して、それぞれの光子検出器で光子の捕捉される確率を調べる。この場合、もし光子の過去の経路が確定していたのならば、EもFも依然として五分五分の確率で光子を検出するであろう。しかしながら、今度は二つの可能な経路の長さの差を適当に調整することによって、例えばEに100%の確率で光子が検出され、Fには決して光子が検出されないようにすることができる。すなわち、この場合、光子は二つの可能な経路を同時に通過する波動の示す干渉パターンと同じものを統計分布によって示すのである。したがって、半透明の鏡Dを挿入せずにEとFの位置におかれた光子検出器が光子を捕捉する実験の配置を粒子モードと呼び、半透明の鏡Dを挿入してEとFの位置におかれた光子検出器が光子を捕捉する実験の配置を波動モードと呼ぶことができよう。

ここで『遅延選択実験』とは、二つの異なる実験配置の切り替えを遅らせて、半透明の鏡を挿入する時刻を、光子が鏡Aで反射または通過する時刻よりも後にずらせた場合に、果たして最終的な光子の捕捉確率に影響が現れるかいなかを調べる実験を言う。この遅延選択実験には高度の技術が要求されるために、実験の精度に全く問題がない訳ではないが、二つの実験モードの切り替えの時刻が光子が反透明の鏡Aや反射鏡B,Cと相互作用したはずの時刻よりも前であるか後であるかに関係なく、同一の実験結果が得られた。

この実験結果は、『(遠い)過去の時空と事件について正当に語り得ることは、近い過去か現在において如何なる測定を行うかに関する我々の選択に依存する』という解釈を自然なものとする。光子が光子検出器によって位置測定を行われた瞬間に、その光子のそれ以前の過去の可能な履歴もまた同時に制作されたかのような結果が得られたからである。ホィーラーは、この実験を宇宙的規模にまで拡大し、宇宙の始まりのころまでに溯る過去の不確定性を示す思考実験を考察した後で『過去がそのすべての詳細にいたるまで《既に存在している》と考えることは誤りである』と結論している。 このように、不確定性原理の適用範囲を未来にのみ制限するのではなく過去にも拡張することは、この原理の解釈に重大な変更をもたらすことになるであろう。ハイゼンベルグによって提示されたもとの形では、不確定性原理が共役な物理量の同時測定の精度の限界を与える不等式として提出されたことから明らかなように、不確定性は単に現在における物理量の同時的な測定の可能性の概念とのみ結び付いていた。しかし、記録として残っていない過去の不確定性は、測定可能性とではなくて、過去の記録ならびに現在の選択と両立可能な物理系の履歴の定義の可能性とかかわりをもつ。そして、このような過去の履歴がただ一つには定まらず、現在における実験家の選択的行為に依存するということが、過去の不確定性という概念の意味内容である。

 

三 相補性の立場からの考察

 

量子力学の哲学的議論において最もよく論議された問題の一つは、波束の収縮という不連続的過程を、量子力学の内部で定式化することの可能性である。このいわゆる『観測問題』は、ボーアが論じた『古典論と量子論のあいだの相補性』とかかわりをもっている。ボーアが量子論と古典論との関係を『相補的』と呼んだことは、彼が古典論が量子論によって完全に揚棄されたとは考えなかったことを意味している。(6)彼の理解した量子論は、人間の認識の限界状況でしか構想されぬ理論であって、古典論の限界を設定すると同時に、それ自身が人間にとって了解可能なものとなるために古典論を必要とするのである。彼はこの意味での相補性について次のように言う。(7)

現象が古典物理学による説明の可能な範囲をいかに遥かに越えたものであっても、およそ確かめられた事実と言われるものの説明というものは、古典的な言葉で表現されるものでなければならない。私の言わんとするところは、我々が『実験』という語で考えている状況とは、そこで我々が何を行い、何を学ぶ事になったかを他の人達に語り得るような一つの状況を指すのであって、その意味での実験上の道具立ての説明や観測結果の説明は、古典物理学の用語法の適正な使用を含む意味のはっきりした言語で表現されなければならないということである。

このボーアの立場を理解するための鍵は、実験室の現場で我々が相互に理解可能な言葉でコミュニケーションするときに前提している言語の用語法が、量子論が扱っている対象を直接記述するものとして理解するならば逆説を生むものであるにもかかわらず、我々は量子論を実験的に検証する場面では、この『古典的な』用語法を使用せざるを得ないという両義的な状況である。なぜ、このような両義性が生まれるのであろうか。

 この両義性が避けられない理由は、ボーアによれば、量子現象の観測問題がともなう観測装置と観測対象との『一体不可分性(individuality)』にある。それは、『原子的な対象の振舞と、その現象がいかなる条件のもとで起こっているかを定義するのに用いられている観測装置との相互作用という二つのものの間を、何らかの仕方ではっきりと分離することは不可能だ』ということを意味していた。このような一体不可分性が相補性の立場を不可避にすることについて、ボーアは次のように議論を続ける。(8)

量子力学において問題となっているのは、原子的現象についての何らかのより詳細な分析を恣意的に断念するということではなくて、その種の立ち入った分析が原理的に排除されているということを認識することなのである。普通の意味ではっきり定義された具体的な事実を理解しようとする際にも、量子現象のもつ特有の一体不可分性の為に、古典物理学からは予見不能な、また日常経験に対して我々を適合させたり適応したりしていくのに適しているように作られたありきたりの観念とは融和しがたい、新奇な状況が出現することになる。

さて、我々が前節で考察したような『過去の不確定性』ないし『過去の履歴が現在における選択によって一挙に制作される』という逆説を示した遅延選択実験は、ボーアの予見した『新奇な状況』の格好の事例と言えるだろう。それは『過去は確定している』という日常経験に適合した用語法とは融和しがたいし、現在の選択的行為が過去の履歴を作るということは常識的には、我々が虚偽の履歴書を現在作成するというトリビュアルな意味を除けば、あり得ないことであろう。しかし、遅延選択実験における過去の履歴の『制作』は、選択以前には存在しない履歴を現在制作するという逆説にほかならないのである。

しかし、どれほど量子論的事象が矛盾に満ちていても、それを我々の経験の表現とし、それについて積極的に語る可能性が排除された訳ではない。この遅延選択実験を、ボーアの言う『因果性と時空的な座標記述の間の相補性』として受容する道が残っている。我々が最後に考察するのは、この文脈における相補性概念の適切な適用によって、常識を犠牲にする事も、逆説を常識へ解消することもなく、『過去の不確定性』という量子現象の新奇な事態を受容する可能性である。

まず我々は、ここで『過去』という語の様々な用法の相違に着目することによって、『不確定な過去』と呼ばれているものが何であるかを明確にしておかなければならない。 実験の準備と測定結果の記録を含む全実験状況の記述は、『確定した過去』という概念を前提することを確認しておこう。実験の結果が明確な『あれか、これか』という二者択一の決定のうえに成り立つことは、そもそも実験的検証ということが可能であるための必要条件である。たとえ、量子論的現象の記録とは、本質的に統計的なものであるとしても、確率や統計について語ることは、このような個々のデータの確定性を前提しており、その意味で、二者択一を『原始的選択肢(Uralternative)』とよび、二者択一が一方に決定されることによる情報の生成を、我々の物理学的認識の基盤と考えたヴァイツゼッカーの見地は正しいと言わねばならぬであろう。一般に現実性の概念は、このような可能な選択肢のなかの決定ということから切り離すことはできない。そして、この現実性の概念が確定した過去と開かれた未来の非対称性に根差す、人間の経験の基本的な時間構造に根差していることも彼の指摘のとおりである。時間経験のこのような累積的構造は、『曾て事実であったものは、常に事実であり続け、常に新たなる事実が生成するから、事実の数量は増加し続ける』というヴァイツゼッカーの文(AP389)に要約されよう。問題は、一つの時間座標tによって、この累積的構造で確定している部分を過去(t<0)に、不確定の領域を未来(t>0)に同定することが許されるかということである。

 ヴァイツゼッカーは、時間的命題の論理として、未来命題にのみ様相を考えているが、それは次のようにして定式化されている(AP81)。まず、『明日はよい天気になるであろう』というごとき、状況に依存する指示句を含まない未来時制命題、すなわち『形式的に完全な(formal-perfektishe)』未来時制命題を考える。例えば『一九九二年一二月一〇日の東京はよい天気になるであろう』のような、場所と時間の明示された調書のごとき未来時制命題である。そして、このような未来時制命題を、『Npt: 時刻tにおいてpは必然的である』または『Mpt: 時刻tにおいてpは可能である』のような様相命題の形で表現する。そして時間的命題が主張されるときには、『それは現在時制命題か、過去時制命題か、様相づけられた未来時制命題の形で主張されねばならず、時間的な限定をもって主張される場合には、それはこれらの三つの形式の一つにおいてのみ主張されねばならない』というのがヴァイツゼッカーの言う意味での時間論理である。

  我々が、第二節で指摘したように、常識的には問題を孕まぬようにみえるこの区別は、量子論における『過去の不確定性』という事態を表現するのに十分ではない。そこでは、座標時間tによって様相命題が表現されているが、このような古典論的(絶対的)な座標時間の使用は、波束の収縮という事態を、測定の時刻において瞬間的に生起する物理的な遠隔作用でもあるかのように誤解させる点でミスリーディングなのである。そこでは直線的な時間座標によってなされた過去現在未来の時制上の区別と、可能態(不確定性)と現実態(確定性)との生成論的区別が同一視されているが、この同一視が疑問視されることこそが、遅延選択実験のポイントであった。量子論においては、時間の(より一般的には時空の)座標的(同位的)分析と、事象の生成論的分析の区別が本質的なものとなる。すなわち、量子論は、時空座標においては過去の領域にあっても、生成論的にいえば、まだ不確定であって単に可能的なものに過ぎない事象の存在を認めることを要求するのである。このことを更に具体的に遅延選択実験を例に考察してみよう。 反射鏡AまたはBで光子が反射したかどうかということは、光の反射という事象が鏡と光子との相互作用(運動量の変化)である以上、それだけで実験的に確認可能な事象である。我々はそれを直接に反射鏡AまたはBのある場所で確認することができよう。さて粒子モードの実験状況においては、この事実を後になってから確認することに問題はないようにみえる。それは古典論での力学で暗黙のうちに仮定されていた事柄、すなわち過去の履歴の唯一性の当然の帰結であろう。これに反して、波動モードで遂行された実験の場合には、最後に捕捉された光子がどちらの反射鏡で反射されたかという事実は確認できないことは明らかである。この時、更に我々が、光子がAで反射したか通過したかを認識できるような実験装置を付加すれば、もはや光の干渉効果は観測されず、我々は全く異なる実験状況に直面することになる。ボーアの言い方を借りれば『現象をさらに分割しようとするいかなる試みも、原理的には制御不可能な、対象と測定装置とのあいだの相互作用という新しい可能性を持ち込む、ある実験上の道具立ての変更を必然的に招来する』のである。それでは、反射鏡Bで運動量のやり取りが行われたかということに関する過去の事実は確定していたのだが、光子が半透明鏡Dを通過するときに、その情報が失われたというべきであろうか。ここで遅延選択実験の重要な意味が現れよう。粒子モードか波動モードかの選択を遅らせても最終的な実験結果には影響しない。すなわち、『光子が半透明の鏡Aで反射したのか、Aを透過したのか』という過去の事実そのものが、半透明鏡Dのある時空領域での観測装置の選択が粒子モードになったその時に現実化するのであって、それ以前に既に現実化していた事実に関する情報が波動モードになったときに失われたということではないのである。このように過去の履歴が現在において制作されるということは、量子論的な事象の一体不可分性という事柄の自然な一帰結として理解できる。それは、確定した過去を時間を溯って変化させるという意味での『遡及因果性(retroーactive causality)』ではないし、『未来から過去へ伝播する』先進波(advanced wave)のごとき物理的過程を含意するものでもない。ここで放棄されなければならないのは、時間の座標的な分析と生成論的分析を混同する見解に外ならないのである。この二つの分析を区別すると同時に、それらを単一の描像のうちに統合することはできないという事態を原理的に承認することが、『過去の不確定性』という事態と、実験観測がそもそも可能であるための条件にほかならない『記録された過去の確定性』という事態の両方を受容する鍵なのである。

 

 

文献

(1) Carl Friedlich von Weizs cker, 《Die Einheit der Natur(EN)》, Carl Hanser Verlag, 1971.

(2) Carl Friedlich von Weizs cker, 《Aufbau der Physik(AP)》,Carl Hanser Verlag,1985

(3) ハイゼンベルグ、『量子論の物理的基礎』(玉木英彦、遠藤真二、小出正一郎共訳)みすず書房,1954,邦訳二十二頁

(4) A.Einstein,“Knowledge of Past amd Future in Quantum Mechanics", Phys.Rev. 34(1931),pp.781-781

(5) J.A.Wheeler, “Law without Law", in Wheeler and Zurek (ed.)《Quantum Theory and Measurement》, pp.182-213。  尚、藤田晋吾『相補性の哲学的考察』、多賀出版、(1991) 180-205頁は、遅延選択実験を、『過去の実在性』に 関する分析哲学者M.ダメットの議論と対比している。

(6) M.ヤンマー、 『量子力学の哲学』 (井上健訳)紀伊国屋書店(1983)上巻105-129頁

(7) N.ボーア、『原子理論と自然記述』(井上健訳)、みすず書房(1990) 199頁

(8) N.ボーア、前掲書、200頁

 

 

 

量子力学の哲学

第二部 分割不可能性と量子論理

田中裕

 

【I】 べルの不等式の破綻と非古典論的世界の現実性

(I)歴史的背景:EPR論文とベルの定理の連関

(A)EPRの議論の前提

(1)物理量の実在性を判定する基準(十分条件)(2)物理理論の完全性を判定する基準(必要条件)(3)量子力学に基づく統計的予測の経験的な正しさ

(B)EPRの議論の形式的構造:

命題C(Completeness):量子力学(波動関数による実在の記述)は完全である.

命題S(Simultaneous Reality):相補的な(交換しない作用素で記述される)物理量が同時に実在性をもつ.

命題L(Locality):空間的に十分に隔てられた二つの場所(c2dt2−dl2<0)でなされる観測(観測装置/対象の選択)は因果的に独立であって,測定結果に影響しない.

 

EPR論文の著者自身による量子力学の 命題Lを前提として明示したEPR

不完全性の論証の形式的構造 の論証の再定式化

大前提(不確定性原理):〜C ∪〜S 大前提: 〜C∪ 〜S

小前提(EPRの思考実験): C→S 小前提: C ∩ L→S

結論: 〜C 結論: L→ 〜C

 

EPRの議論とベルの定理との関係

EPRの議論の結論(局所性を前提すれば量子力学は不完全である): L→ 〜C

ベルの定理(局所的な隠れた変数の理論は量子力学と矛盾する):〜 (L∩ 〜C)

        結論 : 〜L

 

(C)EPRの議論とベルの定理の両方を受け入れるならば,局所性の前提Lは放棄しなければならない.しかしながら、局所性の原理の破綻が、遠隔作用の実在性を意味するのであれば、量子力学と相対性理論との整合性の問題が改めて生じる.一部の論者は、相対性理論を、「ローレンツ以前の状況」に戻して、絶対時間と絶対空間の概念を復活させる試みに着手しているので、我々は、このような試みが果たして妥当なものであるのかどうか、また、量子論的な「非局所性」とは、いかなる性質のものであるのか、という問題を次に考察しよう。

 

【2】Lの放棄と相対性理論との整合性

 

(1) EPR(量子論的遠距離)相関は,非決定論的な偶然的事象系列のあいだに成り立つ相関関係であって,一方の事象系列を実験的に操作することによって,超光速度の遠距離通信に利用することはできない(操作不可能な非局所性).それゆえEPR相関は,エネルギーや信号を瞬間的に遠方に伝達するという意味での遠隔作用ではないから,相対性理論の潜在的反証者(potential falsifier)を現実化したものではない.

(2)EPR相関そのものは,相関する二項のあいだの絶対的な時間的順序については何も語らないから,時間的継起に絶対的順序があることを証明しない.したがって,相対性理論にかわって絶対基準系を前提するローレンツ理論をなんらかの形で復活させるのは適当でない.EPR相関は『隠れた変数の理論』によらずに,またエーテルのような『隠れた実在』や『遠隔作用』ぬきで説明されねばならない.

(3)量子力学においては、「分離不可能な実在」という概念によって、観測者を含む全体を解釈する一般的な理論枠組が必要である。我々は、素朴な実在論の立場をとることは許されず、観測される前の物理系の状態が、すべての点において、観測者である我々とは独立に実在すると前提することは出来ないからである。しかしながら、それと同時に、量子力学は全面的な反実在論をとるものでもないことにも留意しなければならない。電子のスピンが1/2であること、その質量が一定の値をとることなどについては、量子力学もまた、実在論の立場で語っているからである。

 

【3】分割不可能な実在: 量子論の要求する実在概念

1)客観と主観:量子論における対象系は,観測者に対するパースペクティブを抜きにしては定義することができない.したがって観測されるものと観測するものを分離することはできない.

2)全体における部分:量子論的システムのある部分の記述を他の部分の記述から分離することはできない.そこにおいては部分の記述よりも全体の記述が優先する.

3)可能性と現実性:量子論的システムに現れる非決定論は確率の主観的解釈(外界に対する我々の知識の不足)と隠された因果的なメカニズムの想定によっては説明されない.それは確率の客観的解釈(潜在的可能性の尺度)を必要とする.この非決定論は,全面的な非決定論ではなく,それぞれが偶然的である二つの事象のあいだに,決定論的な遠距離相関を許容するという意味で,独自のものである.

4)過去の経歴の不確定性:不確定性原理は,未来に対してだけでなく系の過去の経歴にも適用されねばならない(遅延選択実験).古典論的世界においては、過去の経歴は観測者抜きでただ一つに確定しているが、量子論では、観測される系の過去の可能な経歴のすべてが現在の測定結果にかかわりを持つ(経歴総和法).それは,現在の観測が過去の「事実」に影響を与えるという意味での、逆向きの因果を認めることではなく,過去の歴史が観測されなくともすべて確定しているという古典論的前提を放棄すべきことを我々に要求する.相対性理論が4次元時空で存在する(永遠の相における)事象を記述するとすれば,量子論は4次元時空で非局所的に生起する事象という新しい概念を必要とする.

 

【4】古典論的世界とベルの不等式

−分割不可能性の量子論理的側面−

ここでは、事象の分割化の可能性ということを定義し、それが論理法則を経験的世界に適用する際に、我々が暗黙の内に前提していたことを明るみに出し、この前提が量子力学では、無条件では成立しないことを示そう。これは、量子論理へ「自然な」導入となるべきものである。

  次の二つの経験的事象を考えよう。

a:明日は風が強い。b:明日は雨が降る。

この二つの事象は、いずれも明日の天気について語る文によって記述されている。一般に、事象は命題と異なり、真か偽かという二値をとるのではなく、多値的な確率を付与して語られることに注意しよう。確率論の教科書では、命題と事象を区別しないものも多いが、ここでは、命題とは、我々がその真偽を知る知らぬに関わらず、真偽の確定しているものを指すことにする。そうすれば、aやbのような文で記述される事態を命題と呼ぶときには、我々は、明日の天気は今日すでに確定していると言わなければならないだろう。しかし、確率論が主題とする世界は、このようにすべてがあらかじめ決定されているような世界ではない。

 それ故に、命題(proposition)と事象(event)を区別するほうが、我々の主題が決定論を前提しないという主旨を明確にするであろうし、事象という用語を使うならば、確率論を、aやbのような状況依存的な指示詞(明日)を含む文にも適用できるわけである。そして、命題と事象の区別を明確にすることは、我々の主題である量子論理の性格を理解するうえできわめて重要であるのも関わらず、従来、この点が看過されてきたように思われる。実際、三値以上の真理値を持つ「命題」論理として量子論理を体系化したり、あるいは、真理値を前提しない純粋に形式的な議論においても、古典論理の基本法則である分配法則が成り立たない「命題」論理として量子論理を体系化するといったことがふつうに行われている。しかしながら、後で示すように、偶然性を排除している古典論理の世界で意味を持つ「命題」という概念は、量子論理では狭すぎるのである。そこで、まずはじめに、量子論理が第一義的に関わりを持つのは、「事象」であって、「命題」ではないということを明確にしておこう。

  さて、二つの事象aとbについて、aがbによって分割可能(divisible)であることを aDbで表し、次のように定義しよう。

(1) aDb ←→ def a=(a∩b)∪(a∩¬b)

 この定義式の右辺は、日常的にはアプリオリに前提されている等値関係であるといって良いであろう。「明日は風が強い」ということは、「明日は風が強く雨が降るか、または、明日は風が強く雨がふらないか、いずれかである」と等値である。それは、明日の天候について語るときに、様々な述語によって、場合分けするときに、我々がほとんど無意識のうちに前提している。この等値関係は、次のようなベン図を使うことによって、最も明確に示されるだろう。

このような図示が可能であるということは、

ここでの定義に従えば、「雨が降る」という述語によって規定された明日の天気に関する事象aが、「風が強い」という述語によって規定された明日の天気に関する事象bによって、分割可能であることを意味しているのである。そして、ベン図が示していることは、aがbによって分割可能であるばかりでなく、bもaによって分割可能であること、さらには、事象a、¬a、及び、b,¬bという四つのうち、どの二つをとっても相互に分割可能であるということである。

そこで、二つの事象aとbとが相互に分割可能であるとき、「aとbとは通約可能(commensurable)である」と呼び、aCbで表すこととしよう。

(2) aCb ←→ def aDb&bDa

我々の目的は、分割可能性ないし通約可能性の概念によって古典論的世界を特徴づけることである。

ここで、古典論的世界という時、それは古典的な命題論理によって我々によってモデル化された事象の集合としての「世界」を意味している。それは、例えば ヴィトゲンシュタインが「論理哲学論考(Tractatus)」において「世界」という語を使用したときは、それは「物の集まりではなくて、事象(Tatsache)の集まり」を意味していた。「物の世界」がその構成要素(分子や原子)に還元され再構成されるのと同じように、「事象の世界」もより原子的な事象に分割されることによって再構成されるのである。さて、物理学に於ける原子論が、必ずしももはやそれ以上分割できない絶対的な原子の存在を前提する必要がないのと同じく、複合的な事象を要素的な事象に分割してその総和として再構成できるという事を認める理論は、事象の原子論といってよいであろう。そこでは、原子的事象は、事象を記述する我々の言語にたいして、相対的に定まるものであってもかまわないのである。

 世界という語を上のような意味に解して、古典論的世界を、そこにおいては、あらゆる事象が通約可能であるような世界として特徴づけよう。

(3) 世界 Wc が古典論的である←→def " a,bεWc : aCb

 この様な、すべての事象が相互に通約可能である世界においては、「世界の完全な記述」という概念に、次のような意味を与えることができる。まず、論理的スペクトルという予備的概念を定義しよう。

  相互に排他的であってかつ網羅的(i≠jならbi∩bj=0  )な事象の集合 B={bk}を論理的スペクトルと呼ぶことにする。古典論的世界においては、どの事象aも,論理的スペクトルBによって の様に直和分解される.

さらに一般的に,l個の論理的スペクトルB1,B2,....Bl によって,aは

のように直和分解される.

論理的スペクトルの概念によって,我々は,『古典論的世界の完全な記述』という『理念』を次のように定義できる.

  論理的スペクトルの組B1,B2,...,Bl が古典論的世界の完全な記述を与えるとは

とおけば,任意の事象aに対して, aÇ wm=0かまたはaÇ wm=wm となることである.このとき任意の事象aは wm の直和に分割される.それぞれのwm が世界の可能な完全記述に対応している.

古典論的世界においては,すべての事象に対して,それが生起する先験的確率を定義できる.たとえば,原子的な事象は先験的に等確率であると仮定すれば,原子的事象の総数をNとして,a Ç wm=wm となる m(a)の総数をnとして

となる.

この確率が,古典的な確率論の公理を満たすことは明らかである.一般には,

が成り立つ.

  一般にニュートン物理学やそれに基づく統計力学では、この様な古典的な確率論の計算方法が前提されており、それらは、いずれも事象の分割可能性を認める原子論の上に成り立っていたといえる。原子事象と複合事象との関係は、命題論理の言葉で言い表せば、真理値関数の関係であって、原子命題の真理値がすべて決まれば、複合命題の真理値はそれによって決定されるという意味で、複合事象はその構成要素となる原子事象を指定することによって完全に記述されるのである。

  さて、量子力学においては、ここで前提されていたような古典論的な世界の枠組みに収まらない事象が存在する。そこでは、事象の分割可能性が必ずしも成り立つとは限らないのである。一見して自明に見える公式(1)が成立しない理由は何であろうか。それは、量子力学の相補性解釈を提示したN.ボーアが、量子論的事象の「一体不可分性ないし個体性(individuality) 」と呼んだものと深い関わりを持っているのである。

  相補性解釈においては、量子論的事象が生起したという事は、適当な観測装置を介して測定結果が我々に認識されたということと同じ意味にとる。ある観測可能量(observable)Aのとりうる値がa1,a,...a であるとすれば、この複数の選択肢の中のどれが実現したかが、我々に認識可能な形で記録されれば、量子論的事象が生起したことになるのである。量子力学の理論の数学的構造は、結局のところ、一定の実験状況の下でこのような量子論的事象の生起する確率の間に成り立つ相関関係を計算することにつきるといってよい。

  量子力学の解釈をめぐる論争の中で、特に有名なものは、前節で分析したアインシュタイン・ボーア論争であるが、世界の完全な記述という概念を量子論理の立場から批判すれば次のようになるだろう。

 

アインシュタインは、量子力学は世界の完全な記述を与えるものではあり得ないと考えたが、そこでいう「完全性」の概念には、分割可能性が成立する古典論的世界が前提されていた。相互に分割可能でない(通約不可能な)事象のある量子論的世界においては、このような完全性の概念そのものが成立しない。

 

 最も簡単な量子力学的事象の例として、電子のスピン成分を考えてみよう。

a:電子はx方向にスピン+1をもつ. b:電子はy方向にスピン+1をもつ.

¬b:電子はy方向にスピンー1をもつ

  量子力学において異なる方向のスピン成分は可換ではないから、 事象aを事象bによって分割することはできない.すなわち,『電子はx方向にスピン+1をもつ』という事象を,さらに細かく分割して,『電子はx方向にスピン+1をもちy方向にスピン+1をもつか,またはx方向にスピン+1をもちy方向にスピンー1をもつかいずれかである』というように二つの事象の直和に分割することはできない.

  ここで注意すべき事は、分割不可能性ないし個体性の意味は、如何なる事象によっても分割できないという意味ではなく、それによって分割できないような事象があるということを意味する事である。例えば、電子が特定の方向に+1のスピン成分を持つという事象と、電子がかくしかじかの位置にあるという事象とは通約可能(相互に分割可能)である。それゆえに、ある事象が個体性を持つことを次のように定義するのが妥当だろう。

(4)事象aは個体性をもつ←→def ($ x)(〜aDx)

  個体性を持つ事象が存在すれば、それを分割できない事象があるということであるから、古典的な確率計算のアルゴリズムは当然制約を受けることになる。事象aの生起する確率p(a)を,aと通約不可能な事象bによって分割して、二つの原子的事象 a∩bと の生起する確率の和として表現することができないということを意味しているのである。即ち、自明に見える式、  の成立を主張することができないのである。

  我々は、この様な量子力学独特の事情を、古典論的な世界に収まらぬ事象を量子力学が含むという形で表現するために、次のように、量子論的世界を定義することにする。

(5)量子論的世界とは,分割可能性の関係が対称的であるが,通約不可能な事象が存在する世界である.

世界WQが量子論的である←→def(" a,bεWQ :aDb→bDa)&

$ a,bεWQ: 〜aCb)

  束論の用語を使えば,古典論的世界はブール束であるが,

量子論的世界はオルトモジュラー束である.

 

(C)古典論的世界における情報理論の定理としてのベルの不等式の定式化:

AとBとを観測可能な量(observable)とする。情報理論によれば、Aを測定してai Bを測定してbj が得られたときに新たに獲得された情報量は,

I(ai)=−logp(ai),I(bj)=−logp(bj),両者を合計した結合情報は,I(aiÇ bj)=−logp(aiÇ bj)同様にして,

I(ai|bj)=−logp(ai|bj) はBの値bjが既に知られているという条件のもとで Aの値aiが知られたときに追加された情報を表す。ベーズの定理より、

I(aiÇ bj)=I(ai|bj)+I(bj)=I(bj|ai)+I(ai)

AとBの様々な値が知られたときに獲得される情報の平均値(期待値)は

H(A)= Σip(ai)I(ai), H(B)= Σjp(bj)I(bj)

AとBの結合情報の平均値をH(AÇ B)で表示すると,

H(AÇ B)= Σi,jp(aiÇ bj)I(aiÇ bj) また

H(A|bj)= Σip(ai|bj)I(ai|bj)はBの値bjが与えられたときAによって担われる情報である。H(A|bj)を更にBについて平均すれば,

H(A|B)= Σjp(bj)H(A|bj)= Σi,jp(aiÇ bj)I(ai|bj)

ベーズの定理の直接的結果は

H(AÇ B)=H(A|B)+H(B)=H(B|A)+H(A) である。

われわれはもう一つの情報,すなわち,相関情報を次の様に定義する。

I(ai;bj)=I(ai)−I(ai|bj)=I(bj)−I(bj|ai) この相関情報は正にも負にもなり得るが、その平均値は負にはならない。

H(A;B)= Σi,jp(aiÇ bj)I(ai;bj)

= Σjp(bj)(Σip(ai|bj)log(p(ai|bj)/p(ai))) ≧0

(ギプスの定理による:この定理の証明については、渡辺慧「知識と推測」上22頁参照). それゆえに,基本的な不等式

☆H(A|B)≦H(A)≦H(AÇ B) が成り立つ。左側の不等式は、条件を除去することはある観測可能量によって担われる情報量を決して減らさないということを意味し、右側の不等式は二つの観測可能量は、単独の観測可能量より少ない情報を担うことはないということを意味している。この不等式に基づいてベルの不等式を導出しよう。

二つの物理的に分離された系、αとβを考え、αには観測可能な量(オブザーバブル)AとA’が,βには観測可能な量BとB’とが結合しているとする。これらのオブザーバブルの(離散的な)可能な値を,ai , ,,ak’,bj ,bl 'で表示する。これらの四つのオブザーバブルの観測値が分割可能な実在に対応すると仮定すれば、

結合確率p(ai Ç ak'Ç bj Ç bl')が存在するから,前と同様の統計的考察を行うことができる。基本不等式☆の一般化は

◎H(AÇ B')≦H(AÇÇ A'Ç B')=H(A|BÇ A'Ç B')+H(B|A'Ç B')

+H(A'|B')+H(B')

この不等式の右辺は、分割可能性の成立しない量子論的世界では定義できない確率を含むが, 我々は☆の左側の不等式を一般化して、量子論的世界でも定義できる条件付き確率を含む式に変形することができる。

すなわち, H(A|BÇ A'Ç B')≦H(A|B), H(B|A'Ç B')≦H(B|A')

を利用し、更にH(B') を◎の両辺から引くことによって、我々は情報理論によって表現されたベルの不等式を得る。

◆Bell-I:H(A|B')≦H(A|B)+H(B|A')+H(A'|B')

この四つの条件付の情報は量子力学で定義される確率によって表現される.それらは実験の統計的データによって確定する。 情報の距離という概念を使って,このベルの不等式をA,Bについて対称的に表現することもできる.

情報距離の定義:δ(A,B)=H(A|B)+H(B|A)

情報距離の概念を用いたベルの不等式は,次のような四角不等式である.

◆Bell-2:δ(A,B')≦δ(A,B)+δ(B,A')+δ(A',B')

これは、おそらくもっとも一般的な形式で表現されたベルの不等式であろう。古典論的世界においては、この不等式は分析的な真理(必然的真理)である。したがって、ベルの不等式の不成立が実験によって見出されたことは、古典論的世界の枠組みのなかには収まらない現象が実在することを示したものと解釈することができよう。

 

 

 

 

 

 

付録

確率変数AとBとのあいだの相互依存性

   と情報距離の図解

                    δ(A,B')≦δ(A,B)+δ(B,A')+δ(A',B')