哲学談話室

悪循環の原理

白頭翁の覚え書き(論文ではありません)

93日に、私のHPのminiBBSに下記のような匿名の投稿がありましたので、paradoxさんのご要望に、私に出来る範囲でお答えしたいと思います。 

>Paradox君が、ラッセルのタイプ理論についての
>#詳しい説明を期待して元の掲示板に来たところ
>#無くなっていたと残念がっていました。

 ラッセルのタイプ理論は、独特の論理式で書かれていますので、html文書で表現するのは困難があります。(一般に数式や論理式は、テキストファイルではあつかえませんね)他の読者のことも考慮しなければなりませんから、できるかぎり日常の言葉で説明したいと思います。 

パラドックスさんは、数学基礎論やプログラム理論などがご専門のようですね。私自身は、ラッセルとホワイトヘッドのPrincipia Mathematica は必要があって読みましたが、数学基礎論を専門的に勉強したことはありません。PMは、基本的には数理「哲学」の書物であると、認識しています。哲学的な関心をもって見れば、興味深い問題がたくさん論じられていますが、それらが現在、専門科学として高度の発達を遂げた数学基礎論をやっている人に興味を持っていただけるような種類のものか私には、分かりません。

専門家のあなたに、私から教える様なことがあるとは思えませんが、プリンキピアというのは現在入手しにくい本ですから、その基本思想について不十分ながら、私の理解するところを説明申し上げます。 

まず、PMの基本思想は、少なくも、それが構想された段階においては数学的な「プラトン主義」でした。 

PMにおいては、「数とは何か」という数の本質定義の問題に答えることが意図されていた。これは、PMの入門書とも言うべき、ラッセルの「数理哲学序説」を読むと、明らかに分かります。

 プラトンの初期対話編をご存じでしょうか。そこでは、「----とは何か」という問いが哲学の基本的な問として立てられます。誰もが熟視しているはずのものについて、あらためて「それは何であるか」と問うこと---これがソクラテス・プラトン的な意味での哲学の営みです。 

この哲学的問に答えるに際して、ラッセルとホワイトヘッドは、数の概念に、当時はまだ問題視されていたカントールの積極的無限論の超限数(transfinite number)を含ませることを意図しました。超限数とは、無限集合の数です。 

そのためには、有限集合の数と無限集合の数に共通する「数の定義」が必要になります。従って、数の一般理論を、クラスの概念を使って定式化し、クラスの理論を彼らの言う「命題関数の理論」によって基礎付けること---これがPMの基本路線でした。 

+1=2 という自然数の、誰でも熟知しているはずの命題は、PMでは証明されるべき命題として扱われます。そして、その証明は、実に、362頁に及ぶ、論理学の予備的議論を行った後で、初めて与えられます。

このことは、無限集合の数にも通底する「数」の一般理論を打ち立て、その後で、自然数論という、我々にとって身近なものを論じるというPMの基本性格を大変に良く表しているように思います。 

従って、もし、ラッセルのパラドックスが発見されなかったならば、PMの試みは「数とは何か」というソクラテス・プラトン的な哲学的問いに対して、満足のいく仕方で答えることが出来たでしょう。 

ラッセルの(集合論の)パラドックスについては、良く知られていると思いますので、ここでは繰り返しません。 

このパラドックスに関連して、似たような種類の様々なパラドックスが発見されました。否定的な自己言及(自己自身を要素として持たないクラスからなる全体、のように)によって生じる様々なパラドックスに対して「悪循環(を避ける)原理」によって応じよう、というのがラッセルと・ホワイトヘッドにとって、緊急の課題となりました。 

 悪循環の原理とは、一般に

「ある集合の全体を前提する要素が、その集合自身の中に含まれてしまうようなものであれば、そのような集合は全体を持たない」

「ある集合が全体をもたない、ということの意味は、第一義的には、「そのすべての要素」

については、如何なる有意味な言明もなし得ない」と言う考え方です。

 ここで注意されるべきことは、悪循環の原理には、集合論のパラドックス以外に、(後に)意味論的パラドックスとよばれるようになったものも含まれていたということです。 

たとえば、「全ての命題は、真であるか偽であるか、いずれかである」
という排中律は、それ自身が、一つの命題ですが、悪循環の原理に依れば、この命題は、「全ての」の作用域に入ってはいけないと言うことになります。

 従って、

「存在するものの全体」とか「全ての命題」というのは、その範囲を限定しない限り有意味なものとはならない---

こうして、不当な全体(illegitimate totality)を排除するための原理として、ラッセルとホワイトヘッドは、

「ある集まりのすべて(の成員)を含むものは、何であれ、その集まりの一員であってはならない」

あるいは、逆に、

「ある集まりが、全体を持つと仮定すると、その全体によってしか定義できない要素を含むことになってしまう場合、その集まりは、全体を持たない」

と述べて、これを

「悪循環原理(vicious circle principle)」と呼びました。

この原理は、私の考えでは、哲学的にきわめて重要なものです。しかし、それは、集合論の基礎付けとしては、意味論的な考察を含んでいるために、PMの体系を過度に煩瑣なものとしました。

PMの体系は分岐タイプ理論と呼ばれます。まず、今日なら意味論的なパラドックスと言うべきものを避けるために
階 order の区別が、
集合論的なパラドックスを避けるために
型 type の区別がなされました。

現在数学基礎論を学んでいる人にとっては、この分岐タイプ理論は歴史的な意味しか持たないと思いますが、その内容について説明しましょう。

まず分岐タイプ理論は、「還元公理」と呼ぶ存在仮定を必要としました。
まえの、パラドックスさんの質問で還元公理について説明して欲しいという文がありましたね。

何故、PMの体系で還元公理が必要とされるか、その理由を、プリンキピアの文脈に沿って説明しましょう。

たとえば、「同一性の定義」という問題を考えてみます。

「xはyと同一である」を「xについて真であるものは、何であれ、yについても真である」

つまり「φxは常にφyを含意する」「φyは常にφxを含意する」を意味するものとして定義することを考えて見ます。

(これはライプニッツの不可識別者同一の原理の定式化です)

ここで注意しなければならないのは、この同一性の定義は、「φの全ての値」に言及するが故に、悪循環を避けるためには、「すべての」を一つの階にだけ限定しなければなりません。

φの限定範囲は、述語でも第二階の命題関数でも良いし、任意の階の関数でも良いが、

そうすると、必然的に一つの階以外の全ての階の関数は除外されます。

その結果、種々の段階からなる同一性の階層体系が生まれます。
「xの全ての述語はyに属する」
「xの全ての二階の述語はyに属する」

等々です。この場合、

xの全ての第2階の属性がyに属するならば、
xの全ての属性はyに属します
なぜなら、「
xの全ての述語を有する」ということは、第2階の属性であり、
この属性は
xに属することになるからです。

しかし、ここで、何らかの公理の助け無くしては

xの全ての述語がyに属するならば、xの全ての第二階の属性もyに属する」

という逆の主張は出来ません。

それ故に、何らかの公理のたすけなくして
xyが同一の述語を共有していても、xyは同一である」

とは主張できません。

いわゆる不可識別者同一の原理において

「不可識別者」というのは、「全ての属性について一致する二つの対象」
ではあり得ません。というのは、xの属性の一つに

「xと同一である」というのがあり、もしも、xとyが全ての属性において
一致するならば、その属性も必然的にyに属してしまうからです。

それ故に、不可識別者同一の原理の定式は事物を識別できないものとするのに必要な共通の属性に対して、何らかの限定が必要になります。

PMでは、「還元公理」を仮定することによって、この問題を解決しています。

還元公理とは、

「いかなる命題関数φxに対しても、それと形式的に等値なある述語的関数がある」

と主張するもので、

├ (∃ψ)(φx≡ψ!x)

と形式化されます。変数が二つ以上の場合にも同等です。

 

「還元公理」はPMの体系でクラスを論じるときに大切な役割を演じます。

もしも、クラスの存在を仮定すれば、還元公理は、そこから証明できます。
(従って、還元公理は、クラスの存在仮定よりも弱い仮定です)

なぜなら、クラスが存在するならば、任意の階の命題関数φ にたいして
φ を充足する対象だけからなるクラスαがあることになり、

「φx」は「xはαに属する」と等値となりますが、

xはαに属する」とは見かけの変数を含まない言明であるので、xの述語的関数となりますので。

しかし、還元公理は、クラスが存在するという仮定よりも弱い仮定で有るとはいえ、存在仮定であることには違いなく、それを自明と見なすべき、論理学上の理由が希薄であるという問題が残ります。

ラッセルは、このことを認め、「自明であることは、ある公理を承認する理由の一つに過ぎず、決して不可欠のものではない」と述べ、それを仮定することが、数学の全体系を導きうると言うプラグマティックな基準に最終的には訴えています。

しかし、論理主義の立場というのは、数学に基礎を与えるに際して、このようなプラグマティックな理由付けを拒否することを、もともと意味していましたから、還元公理を仮定したと言うことはやはり首尾一貫しないという問題点を残したわけです。

 随分と長い議論になってしまいました。さらに詳しく知りたいと思われるのでしたら、後は、Principia Mathematica の原本を読まれては、と思います。(大学の図書館にはあると思いますので)