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時間性と個体性

−ライプニッツ・フッサール・ホワイトヘッド−

田口 茂

 

 H・ポーザーは「20世紀の諸モナド論」(1)という論文において、ライプニッツの「モナド論」の根本的発想を受け継ぐ現代の諸思想を取り上げる中で、現象学とホワイトヘッドの哲学を挙げている。現象学的モナド論に関してポーザーが挙げているのはD・マーンケ(Dietrich Mahnke 1884-1939)の思想であるが、彼の師であり現象学の創始者であるE・フッサールがすでに、彼自身の哲学の全体像を一種の「モナド論」として特徴づけている。彼は、「現象学はライプニッツによって天才的な洞察のうちで先取りされたモナド論へと導かれる」([,190)とまで言っているのである。ホワイトヘッドもまた、後述するように、ある箇所で自己の考えを「モナド論」と呼んでいる。多元論的な有機体論という彼の哲学の根本性格を考えるとき、そこにライプニッツのモナド論と相通ずる面を見出すのは容易であろう。モナド論的思惟の現代的展開を考える上で、フッサールとホワイトヘッドというこの二人の思想家の理論の検討は欠かすことができないと思われる。

 ところで、モナド論に関してしばしば批判の的となるのは、諸モナドに「窓がない」という点である。このことは、個体の多元論を考えるとき、どうしても避けて通れない問題である。仮に一つの個体が他の個体と構成要素を共有するとしたら、そこでは厳密な意味での個体性は破れ、突き詰めれば一元論が帰結することになる。他方、個体に厳密な個体性を認めるなら、諸々の個体の「交通」をいかに考えるかが難問になる。この問題に対処するにあたって、そもそも「個体とは何か」を問うことが、上記三者の思惟の中心を占めていると思われる。本論は、この三人の哲学者の「個体」論を検討することを通して、モナド論的思惟の試金石であるモナド間の交通の問題に一つの解決の糸口を見出してみたい。

 

1 ライプニッツとホワイトヘッド

1.1 ホワイトヘッドにおける延長とモナド

 『過程と実在』第二部第二章には、ホワイトヘッドが自らの理論を「モナド論」に比している箇所が見られる。そこで彼が展開しているのは、延長的連続体(extensive continuum)の原子化(atomization)の理論である。彼にとってモナドとは、現実的契機のことである。彼は次のように言っている。「各々のモナド的創造物(monadic creature)は、世界を『感得する』過程の一様態であり、世界を、あらゆる点で確定的な〈複合的感得の一単位〉へと宿らせる過程の一様態である。そのような単位が『現実的契機』である。それは、創造的過程から派生する究極の創造物である」(PR,80)。この現実的契機が「モナド」と呼ばれる所以は、現実的契機が、ライプニッツのモナドと同様(Vgl.GU,435f.)、それ自体延長的でなく、むしろ延長を現実化するものとして考えられているからである。「現実的契機は生成する創造物であり、〈連続的に延長的な世界〉を構成する。いいかえれば、延長性は生成するが、『生成』はそれ自身延長的ではない」(PR,35)。現実的契機は、潜勢態としての延長的連続体を原子化することによってそれを現実的に区分し、自らを延長の中に位置づける。そのさい現実的契機は、延長体の「どこかに」あると同時に、現実的契機の生成が一つの延長的世界の生成を意味するがゆえに、ある意味で延長体を「含み」、延長体の「至る所にある」とも言える。現実的契機はいわば、連続体の全体に「浸透している」のである(PR,67)。こうしてホワイトヘッドによれば、「延長」において、諸々の現実的契機の「連帯性」(solidarity)と「個体的非連続」(individual discreteness)とが同時に語られうる(PR,309)。これらをホワイトヘッドは「内的」にして「外的」な関係という二重性として性格づけている(ibid.)

 ライプニッツのモナド論においても、諸モナドはまさに「内的」にして「外的」な関係を取り結んでいる。それぞれのモナドは「宇宙の生ける鏡」であり、すべてのモナドをおのれの内に「表現する」(repr senter)ないし「表出する」(exprimer)(Vgl.GW,434, GY,616)。この意味で、諸モナドは相互に内在しあう緊密な関係性の内に生きているのだが、それにもかかわらず、諸モナドはそれぞれ「個体」であり、他のすべてのモナドから個体的に独立している。この二重性を、ライプニッツは「パースペクティヴ」の概念を用いつつ論じている(GY,616)。パースペクティヴ性という観点から、諸々の自立的個体が相互の自立性を侵すことなく一つのシステムを成す様が分析されうるのである。この点から見ても、ライプニッツが彼のモナド論において表現しようとしていたことと、ホワイトヘッドの延長体の理論が扱おうとしていたこととの事象的共通性を指摘することができる。

 

1.2 実体は変化するが現実的契機は変化しない

 しかしながら、ライプニッツのモナド論とホワイトヘッドのモナド論は或る本質的な点で異なっている。ホワイトヘッドは次のように論ずる。「...これはモナド論である。しかしそれは、ライプニッツのモナド論とは異なっており、その違いは、彼の言うモナドが変化する(change)という点にある。有機体理論においては、諸モナドは単に生成するだけである。」(PR,80)

 ライプニッツがモナドを「非延長的」と考えるとき、そこで念頭に置かれているのは、もっぱら「空間的延長」である。これに対し、モナドが、表象(perception)から表象へと推移する諸々の状態の変化を含む(GY,609)とされている点を考えると、ライプニッツはモナドに「時間的延長」を認めているかのように見える(2)。そうでないとしても、少なくともモナドは、諸々の出来事の時間的継起を担う「実体」(substance)なのであって、この意味で、ライプニッツのモナドは諸々の変化の基体であり、「変化する」と言ってよい(Vgl.GY,608,§10)。ホワイトヘッドは、「変化」を「何らかの確定的な出来事(event)の中に含まれた、諸々の現実的契機間の差異」(PR,73)と定義しているが、ライプニッツにおいてモナドが甘受する経験は、まさにこうした定義を満たすものである。

 これに対し、ホワイトヘッドにとって、変化する諸限定(qualifications)の冒険」(PR,75)を許された「実体」、すなわち時間的延長をもつ実体は「個体」とは見なされえない。時間的延長もまた原子化される(「エポック的時間論」)。延長的連続体の原子化は、その「空間化」(spatialization)だけでなく「時間化」(temporalisation)をも意味するのである(cf.PR,68, 289)。真に「個体的」と呼ばれうるのは、この「時間化」をもたらす個々の現実的契機、さらに言えばその「生成」(becoming)の働きである。「...あらゆる生成の働きにおいて、時間的延長を伴った何ものかの生成がある。しかし、その働きそのものは延長的ではない」(PR,69)。空間的にも時間的にも延長的でない現実的契機、それは変化を貫く同一的なものではありえず、この意味で「変化しない」のであるが、そのような現実的契機こそ、真の「モナド」であり、真の個体であるとホワイトヘッドは考えているのである(AI,177)。

 

1.3 個体の実体論的‐非時間的解釈とその帰結

 ところで、ライプニッツのモナドはそれ自身の状態を変化させるが、単純に現在を次々に結びつけた鎖状の結合体(nexus)であるとは言えない。モナドは諸々の状態や出来事を含むが、その「含む」という語の意味に注意しなければならない。すなわち、ライプニッツにあっては、モナドをその歴史のいずれかの時点に帰すること、すなわちモナドを個々の現在と同一視することはできないし、他方で、諸々の現在の継起と同一視することもできない。むしろ、モナドはそれらの状態や出来事を「属性」として含む「実体」であるとされる。モナドは諸々の現在の系列を超え、いわばそれとは次元を異にしているのである。「実体」としてのモナドは、時間の中にはない。むしろ「時間」はモナドのあり方の一つにすぎない(GU,263)。時間的継起は「系列」(series)の一様態にすぎない。そしてこの系列の「法則」(lex)の同一性こそが、実体の同一性の根拠である(GU,263f.)。ホワイトヘッドは、このような性格をもつモナドが「代数方程式によって表現された曲線」を思わせると述べているが(MT,100-101)、ライプニッツ自身、モナドの実体的性格を級数(series)の法則に見立て、個々の現在の状態を「級数において或る項を特定する働きのようなもの」と表現している(GU,262)。モナドの個々の現在は、いわば実体のもつ系列法則が或る特定の値をとったものにすぎない。重点は「法則」ないし「形式」の方にある。ライプニッツにおいては、この個体の法則、すなわち「個体概念」(la notion individuelle)こそが「実体」であり「個体」である。ここでは、時間的過程が静的な「形式」に吸収されていると言えないであろうか。少なくとも、「実体」として考えられた「個体」は、もはや時間的なものではなく、「時間を超えた」一種の普遍的性格をもつのである。ライプニッツが個体を「最後の種」(les dernieres especes)(GU,131)と見ている点もこの主張を裏付けるように思われる。

 このように、個体を「実体」と見なすことは、それを非時間的な「概念」と見なすことへと導く。このことは、モナド論の懸案事項である「実体間の交通」の問題にどのような帰結をもたらすであろうか。ライプニッツは、「個体的実体の概念には、その実体のあらゆる出来事が含まれているばかりでなく、出来事に伴う一切の状況や外的事物の全系列も含まれている」という考えを提示している(Vgl.GW,432ff., GU,12, 56)。ライプニッツの言う個体的実体は、それ自身に起こる時間的(通時的)な出来事の系列を含むだけでなく、同時的(共時的)なものの系列をも含めた、全宇宙を「含む」、あるいは「表出する」。このように諸モナドは、はじめから同じ宇宙を異なった視点から表出するように創造されているので、時間的展開の中で互いに交流する必要はない。神はまず第一に「宇宙の概念」を決定するのであり、その中で、その宇宙のすべての個体的実体の概念をも決定するのである(Vgl.GU,41, 51)。こうして、ライプニッツにおいては、宇宙の連帯性が過度に強調され、個体の個体性は結局宇宙の一パースペクティヴという地位に格下げされてしまうように見える(3)。個体の多元性より一元論的・全体論的論調が結局のところ優勢になる。ホワイトヘッドが言うように、「実体」の概念は、「多元論的実在論の体系」を「座礁」させてしまうのである(PR,78)。個体を「実体」と見なす以上、それを非時間的な「概念」と見なさざるを得ず、個体間の関係は、時間的展開の中での相互交流ではなく、「宇宙の概念」における「予定調和」として説明されざるを得なくなる。

 

1.4 ホワイトヘッドにおける「時間」の根底性

 これに対し、ホワイトヘッドが個体を「実体」ではなく「生成」から捉えたということは、ホワイトヘッドの理論において「時間」が根底的な役割を果たしていることを意味する。また、個体を生成から捉えることによって、個々の現実的実質が「他のすべての現実的実質を超越する」(PR,88,222)という性格を獲得する。なるほど、ホワイトヘッドもライプニッツと同様、宇宙の連帯性を強調してはいる。しかし、ホワイトヘッドにおいて宇宙の連帯性は、ライプニッツにおけるように確定した静的な形式ではない。むしろ、宇宙は絶えず創造的に前進しており(PR,222)、その創造的前進を支えるのは、個々の現実的実質の創造的決定である(PR,85)。ライプニッツの神が、諸モナドに対して「創造」という一方的関係しかもたない(Vgl.GY,614)のに対して、ホワイトヘッドの神は、諸々の現実的契機と徹底して相互的・交互的関係にある(PR,348-9)。この意味で、ホワイトヘッドにおいては、神にとっても宇宙は確定的でない。「神も世界も、静的な完成には達しない。どちらも究極的な形而上学的根拠、すなわち新しさへの創造的前進の手中にある」(PR,349)。ここにわれわれは、ホワイトヘッド形而上学における「時間」の本質的役割を見ることができる。宇宙(ならびに神までも)の根本的な性格を実体的にではなく過程的‐生成的に捉えるところに、「時間性」への問いの根底性が見られるのである。

 

2 フッサールとホワイトヘッド

2.1 フッサールの「モナド」概念とその二義性

 さてそれでは、フッサールの場合はどうであろうか。フッサールは、実体論的思考を離れ、徹底して「時間性」へと問いを進めようとしていた点では、ホワイトヘッドと関心を共有しているように見える。フッサールにおいても、究極的な個体としての「モナド」は「実体」であるよりはむしろ生成するプロセスとして考えられている。

 フッサールにおいて「モナド」とは、最も具体的な主観性を意味する概念である(HT,102)。自我は、無世界的な抽象的主観性としてあるのではなく、個々の対象を通してつねに世界へと関わり、世界内に身体的に定位している。したがって、そのつど開かれてくるのは、自我と世界との具体的相関そのものである。この、固有の仕方で開かれた自我と世界との具体的相関、すなわち「世界を経験する生」(welterfahrendes Leben)の個体的にして具体的な全体を、フッサールは「モナド」と呼ぶ。

 フッサールは、この「モナド」こそ究極的な「個体」であると考える。「モナドは一つの個体である。モナドは二度存在することはできない。...究極的に個体化するものはモナド的個体である」(H]W,159)。その際フッサールは、「個体的」ということを次のように考えている。「『個体的』とは現存在の一回性を意味する。それゆえ個体性という概念は、時間に関係した概念である。個体的であるのは、時間的存在者として或る時間位置にのみ(一回的に、何度もではなく)存在しうるものである」(H]X,374)。ただし、一つの時間位置に定着した個体的なものは、すでに生成してしまった個体であり、それを個体として経験する「現在的」な個体を要求する。フッサールの言う「モナド」は、そのような「現在的」な絶えざる生成のプロセスにほかならない。「モナドは生成することによって存在する」(H]W,38)。

 ところで、そのつどの現在的経験が、「一回的な比類のない生起」であると同時に、「一つの連続的な生の流れ」を形成することから、モナドは時間論的に言って二つの側面をもつことになる。すなわち、1)モナドは、いわば「それ自身から湧出する」「自己実現」(H]W,359Anm.)ないし「自己時間化」(Selbstzeitigung)(H]X,375)と言うべき側面をもつ。この意味でのモナドは「絶対的モナド」(absolute Monade)ないし「原生動的モナド」(urlebendige Monade)と呼ばれる(H]W,35)。これに対して、2)おのれ自身の過去との統一体、すなわち「歴史の統一」(H]W,36)としての側面がある。この意味でのモナドは、「内在的に構成されたモナド」(immanent konstituierte Monade)と呼ばれる。フッサールは、この区別を必ずしもあらゆる場面で徹底することはなく、むしろ「モナド」という概念を、この両側面を含む二義的概念として用いているように見える。

 

2.2 「意識生」としての現実的契機

 ホワイトヘッドから見ると、以上の二側面のうち、1)の側面は、現実的実質の「自己実現」(PR,51, 222)「自己原因」(PR,86,150,222)といった性格を考えれば、一つの現実的実質の「生成」の過程に対応すると言える。ホワイトヘッドがこの「自己実現」を「事実の中の究極的な事実」(the ultimate fact of facts)と見ている点も(PR,222)、フッサールにおけるモナドの「原事実」(Urfaktum)的性格を思わせる(H]W,159f., H]X,385)。フッサールの「モナド」とホワイトヘッドの「現実的実質」は、それがおのれ自身からの比類のない生起であるという点で、ある共通した性格をもつのである。

 他方、2)の側面は、すでに「結合体」への関わりを何らかの仕方で含んでいる。ただしこの関わりは、ホワイトヘッドの言うところの史的ルート(historic route)(PR,56,119 etc.)、すなわち、過去から現在までの諸契機の結合体と見なすこともできるし、現在の現実的契機において当の史的ルートを過去へと遡る奥行きと見なすこともできるように見える。これは、フッサールの思惟がもっぱら人間的生のレベルに定位しており、彼のモナド概念も人間の「意識生」(Bewusstseinsleben)をモデルに形成されたものであることから生ずる両義性であろう。意識生における現実的契機の特徴は、空間的に広い範囲にわたって過去の諸契機を感得したものを統合するとともに、時間的にも深い過去にまで達する、いわば過去を深くえぐりとるという点にある。ここに、「構成」(Konstitution)と呼ばれる場面が成立するが、それがホワイトヘッドの言う「補足的段階」(supplemental phase)だけで事足りるのか、それともそれ自体が一種の結合体なのか、を一義的に解釈することは難しい。とはいえ、いずれにせよこの第二の側面が、広い範囲の現実的契機に関わる統一的事態を問題にしていることは間違いない。

 ここで注目したいのは、フッサールが2)の側面に対して1)の側面をより根源的なものと見なしたという点である。「...モナドは自らの時間的に延長した存在を、固有の立ちとどまる時間化からもっている。モナド自身が、第一の最も本来的な意味においては、この時間化なのである」(H]X,375)。このような見方は、2)の側面を解釈する際にも、それを一つの現実的契機の中に取り込んでしまう解釈を優先させる結果になる。時間化としてのモナドは、自らの過去との統一を「構成する」ものと見なされる。

 

2.3 現在の絶対化という難点

 この点が、フッサールの理論の一つの弱点になりうる。ライプニッツが、個体に起こる諸事実を当の個体の「形式」ないし「法則」(個体概念)に還元しようとしたのに対し、フッサールは、過去から現在へと至る諸事実の統一体を、「生ける現在」(lebendige Gegenwart)の原事実的生成に還元しようとした(「徹底化された還元」(4))。フッサールは、モナドの「自己時間化」を究極的な「構成するもの」(das Konstituierende)と考えているが、われわれはそこに、「時間化」という過程的装いにもかかわらず、実体論的思考の残滓がないかどうかを疑ってみなければならない。モナドが「すべてを時間化し生み出すもの」として、最も「根源的」な位置を占めるかぎり、フッサールの理論の中において、モナドないし超越論的主観性自身が相対化される視点は得られない。モナドの多数性を理論の内側から説明することは困難になる。「モナドの内ではあらゆるものがあらゆるものと結びついている」(H]W,36)と言われるように、普遍的な連帯性は、各モナドの内でのそれとしてしか考えることができない(5)。そうすると、モナド間の一致対応は、外的な要請として考えるしかなくなる。ここに、ライプニッツの場合と同じ困難が生じてくる。このような結果になるのは、モナドの「時間化」が、モナドのあらゆる「内容」を担う同一者の位置を占めているからではないか。この意味で「時間化」が実は偽装された「実体」の役割を果たしてはいないか。最も厳しい見方をとれば、「実体」を「時間化」と言い換えただけで、理論的枠組みは実体論的形而上学と変わっていないという批判もあり得ると思われる。

 

2.4 「脆い」現在──ヘルトによる新しい展開方向

 しかし、この困難を乗り越える端緒は、フッサール自身の思考の中にもあると思われる。というのも、「時間化」を一方的に「構成するもの」と解釈することは、フッサールの時間論的分析の成果から必ずしも一義的に帰結する事柄ではないからである。K・ヘルトは、フッサールの後期時間論を徹底化する中で、そこに混入しているかもしれない実体論的前提を排除しようとする。ヘルトは、フッサールの後期時間論を批判的に継承しつつ、生ける現在のもつ「脆さ」(Hinf lligkeit)を指摘する(6)。生ける現在は、恒常的同一性を保つことはできず、絶えずおのれ自身を脱して更新されねばならない。さらにヘルトは、この「現在」を「開現」(Aufgang)と「脱去」(Entzug)との二面性を持つものと捉え、そこに「誕生の絶えざる反復」と「絶え間なく死ぬこと」とを読み込んでいる(7)。この考えは、ホワイトヘッドのエポック的時間論との近さを感じさせる。ここでさらに、推移の過程の「客体化」という側面をも顧慮するならば、現象学に或る根本的に新しい理論的視点が開かれることになると思われる。すなわち、生ける現在を同一的根源としてではなく生まれては死ぬ「脆い現在」として見ることによって、自己生成的なモナド的主体が全面的に相対化され客体化されるという視点が開かれることになるのではないか。そしてこの見方は、まさにホワイトヘッドの有機体の哲学と重なる。

 

3 モナド論のホワイトヘッド的展開の可能性

3.1 「主体‐超体」の概念

 ホワイトヘッドにおいては、現実的契機の個体性はその「満足」(satisfaction)に求められるべきであると指摘される(PR,84, 154)。しかし、当の現実的契機の「満足」は同時にその「消滅」を意味する。個体が個体であることを実現するのは、究極的な主体であることによってではなく、まさに主体としては「消え去る」ことによってなのである。だがさらに、ホワイトヘッドの独創的な点は、主体の消滅を客体性の獲得と見ること、すなわち「主体‐超体」(subject-superject)の概念にあると思われる。「現実態は、主体的直接性を失う一方で、消滅することにおいて客体性を獲得する」(PR,29)。「絶対性を『失うこと』は『客体的不死性』を獲得することである」(PR,60)。現実的契機は、おのれの個体性を達成すると同時におのれ自身を超越し(PR,219)、公的な場に自らの身を投げ出す(PR,289)。いかなる現実的契機も、この公的な場において語られうるがゆえに、いかなる主体も一方的に絶対化されることはできない。主体について語ることは、同時にその客体化について語ることになるからである。

 

3.2 モナド間の直接的‐「因果的」関係の可能性

 この独創的な発想は、「モナド間の交通」というモナド論的理論の困難を打開しうる射程をもっている。ライプニッツにおいてもフッサールにおいても、モナドが諸々の経験の同一的な主体であるという点が、まさにモナド間の直接的交流の可能性を塞いでいた。これに対し、ホワイトヘッドは、「主体」の概念を逆転された仕方で保持しつつ、それを「主体‐超体」へと転化させる。ホワイトヘッドによれば、主体が諸々の経験内容を生み出すのではなく、諸々の経験内容が主体を生み出すという点で、有機体の哲学は実体の哲学を逆転する(PR,151)。実体の哲学は、まず主体を前提しこれが経験を迎えるという構図を下敷きにしているがゆえに、あらゆる経験は主体のうちに閉じ込められ、主体は自己自身から出ることができなくなってしまう。しかし、ホワイトヘッドの有機体の哲学においては、主体は他者から生まれ、主体として完成し消え去る際に、他者によって客体化されるという形で当の他者を新たな主体として生み出してゆく。この意味で、現実的契機は、消え去ることによって「作用因」を獲得する(PR,29)。ここに、諸現実的契機間の「因果性」について語ることができる。しかもその際、「個体」の見方が、実体論を離れ、時間論的・過程的方向へと徹底されているがゆえに、モナド間の因果性が個体性を損なうことにはならない。むしろ、「個体がある」ということが即ち一つの因果的作用を意味している。ホワイトヘッドのモナド、すなわち現実的契機は、宇宙の多を自らの一の内に取り集めるというライプニッツの根本的発想を生かしつつ、その合生の満足が他の現実的契機における客体化を意味するという仕方で、モナド間の直接的‐因果的関係という見方をも可能にしているのである。

 

結語

 以上に見てきたように、ライプニッツのモナド論においては、その実体論的前提が個体性を時間性から切り離し、その結果、諸モナドの個体性より宇宙の連帯性に重点が置かれているように見える。他方フッサールにおいては、個体の時間的見方がより徹底されてはいるが、「生ける現在」の「時間化」を過度に強調するならば、ライプニッツとは別の仕方で実体論的構図に陥る危険性がある(8)。これに対し、ヘルトの試みに見られる「脆い現在」という見方を強調するならば、現象学の個体論はホワイトヘッドのそれに近づく。ホワイトヘッドは、個体性を徹底して時間的に捉え、そこに「主体‐超体」という新しい理論的枠組みを導入することによって、モナドを実体的に閉鎖することなくモナドに対して理論的に開かれた視点を供給し、それと同時に、モナド間の相互交通というモナド論の難点にも一つの解決を与えている。ここに、モナド論から、実体論に由来する困難を最終的に払拭する可能性が開かれているように思われる。この意味で、ホワイトヘッドの有機体の哲学は、モナド論的思惟の一つの新たな、優れた展開方向を体現していると言えるのではないだろうか。

 

 ライプニッツのテキストは、Die philosophischen Schriften von G.W.Leibniz. Hrsg. v. C.I.Gerhardt から引用する。G と略記し、巻数をローマ数字で、頁数をアラビア数字で示す。フッサールのテキストは、Husserliana. Edmund Husserl Gesammelte Werke, Den Haag から引用する。H と略記し、巻数をローマ数字で、頁数をアラビア数字で示す。ホワイトヘッドのテキストは、以下のように略記する。

 PR: Process and Reality, New York, the Free Press, 1978.

 MT: Modes of Thought, New York, the Free Press, 1968.

 AI: Adventures of Ideas, New York, the Free Press, 1967.

 

(1)Hans Poser: Monadologien des 20. Jahrhunderts, in: Studia Leibnitiana. Supplementa.Vol.XXVI, Stuttgart 1986.

(2)実際、彼はある箇所でモナドが「存続する」(subsister)という表現を用いている(GY,610)。

(3)以下の論考が同様の解釈を示している。四日谷敬子『個体性の解釈学−ライプニッツから現代まで−』晃洋書房、1994年、38頁。

(4)Vgl.K.Held: Lebendige Gegenwart, Den Haag 1966, S.66ff.

(5)H]W,293 では、「実体」概念に引きつけてこの点を解釈している。

(6)Held: a.a.O., S.171f.

(7)Held: Ph nomenologie der Zeit nach Husserl, in: Perspektiven der Philosophie, Bd.7, 1981.

(8)一言付言するならば、このような批判によって、ライプニッツ・フッサール両者の哲学が無意味になるわけではない。むしろ、体系的な大枠に関わる難点を解消することによって、彼らの個々の思惟や分析が、そうした難点のゆえに捨て去られることなく、かえってよりよく生かされうるのではないか。