アジアにおける
コミュニティー・オーガナイズ(住民組織化)運動の流れ


下川雅嗣


 

■背景[1]

第三世界のほとんどの大都市は、その発生の起源を植民地時代にまでさかのぼることができる。ラテンアメリカでは、人口100万以上の都市のすべては、スペイン人かポルトガル人の手で1580年以前に作られたものであり、アフリカでは、英国やフランス、ポルトガル、ドイツ、ベルギーなどが作ったものである。そしてアジア・太平洋地域でも、英国、フランス、オランダ、ポルトガルが居留地を設置し、統治・貿易・産業の中心地として発達させた。そして、現在もその都市には目に見える形で数多くの植民地時代の名残が見られる。

このような都市の多くは、海に面して各地からの産物を集積しやすいところに位置している。このことからも、植民地支配の利益のために、まず地理的条件が考慮に入れられていたことがわかる。マニラ、ジャカルタ、ボンベイ、カルカッタ、マドラスなどの町を思い浮かべてみれば、納得できるであろう。一般にこのような都市では、先住民との文化的・社会的な分離政策がとられており、支配者・被支配者が、はっきりと隔離されていた。そして第三世界の都市では、生産と取引のセンターとして機能を果たすために急速に成長する過程で、安い労働力を必要とし、そのため非常に条件の悪い周辺居留地に、多くの貧困者が吸い寄せられ(時に強制的につれてこられ)、スラム地域は拡大していった。

植民地時代、そして今日でも、都市は貧困層の労働なしにはその機能を果たすことができない。彼らのたずさわる仕事のほとんどは、実際にはインフォーマルセクターと言われる部門での仕事であるが、彼らの提供する安価な商品やサービスは『合法的な町』にとって欠くべからざるものである。

1970年代は開発の時代と言われるが、その開発も国際経済機構のメカニズムのもとでは、常に先進国の利益が優先されてきた。これは植民地政策の延長であり、このことこそが第三世界の経済的・社会的な開発を根本的に妨げている要因の一つである。従って、先進国の政策上の積極的な変革なしには、第三世界の真の開発はきわめてむずかしいと言わざるを得ない。さらに豊かな国と貧しい国との関係を特徴づける不平等は、第三世界内の金持ちと貧困者の関係を作りだしている。そのような状況の中での世界経済機構の中に国家経済が統合されるプロセスは、もしこのままにしておけば、貧困者の国家経済への参入を完全に閉ざしてしまう。

このように今日の社会において、もっとも弱い立場におかれた人たちは、あらゆる形の人権侵害と、歴史的につくられた不当に課された貧困に苦しんでいる。この構造は、被抑圧者の叫びに耳を傾け、彼らの視点から『正義』や『人間の尊厳を剥奪することは何か』を見ようとしない限り、決して理解できないだろう。彼らと連帯するならば、貧困と抑圧の根本原因についての意識変革が行われるはずである。

特に、構造的不公正がもたらすものは、貧困者自身の意思決定からの排除と、社会変革への参加からの除外である。このような状況のなかで、遅かれ早かれ被抑圧者が目覚め、未来の可能性を求めて立ち上がるときがくるであろう。そして実際に被抑圧者・貧困者自身の立ち上がりは、すでにいたるところで始まっている。しかし、それらの動きに対して、多くの国において、また先進国ネットワークにおいて支配者は、これを反乱や革命のしるしと受け止め、その経済的・政治的な力で、この動きを抑えこもうとする。表向きには、「法と秩序」の遵守を呼びかけながら、正義や安全保障の名目で、この抑圧の構造を維持するために彼らを弾圧するのである。にもかかわらず、貧困者は確実に成果を上げながら立ち上がってきた。以下では、1970年代以降アジアでかなり広がり力を持った貧困者自身の立ち上がりについての一例について話す。

■歴史

どの国においても、一般に都市貧困層は行政・社会から排除される傾向にある。このような貧困層の発言に耳が傾けられるのは、彼らが組織化されたときのみだ。貧困層がその生活環境を改善するための鍵は“組織化”である。アジアでは、特に居住=人間らしく住むための貧困者の組織化の歴史に富んでいる。その組織化によって彼らは、強制撤去を回避し、居住空間を手に入れてきた。

 この大きな流れを作ったひとつの方法論は、サウル・アリンスキーの方法論である。ここでは、この方法論がどのようにアジアで広まって行ったのか、そしてその内容を簡単に紹介し、またその限界として私が感じていることにも少し触れたい。

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 サウル・アリンスキー(1901-1972)は、シカゴのスラム街で生まれ、主に黒人居住区の住民の組織化を実際に行いながら、1940年頃、あるひとつのコミュニティー組織化方法論を確立させた。アリンスキーの方法論については後ほど具体的に述べるが、草の根的活動からはじまる社会変革のためには、創造的で直接的行動を伴った現実的な目標獲得が大切で、これを通してコミュニティーは組織化され、それによってより一層大きな目標獲得ができると言う社会変革のためのサイクルである。この方法論は1960年頃全米に広がり、1970年以降は日本を除くアジア諸国にまで広がった。その歴史について、簡単に紹介しよう。

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 アジアでは1960年代後半から1970年代はスクオッター(所謂、『不法占拠』)に対する強制撤去が頻繁に行われた時期である。これに対して当初はスラム等貧困層の人々は、大きな組織化をどのように実践したらよいか暗中模索の状態であった。そこで、アメリカでアリンスキーと共に活動をしていたヘルベルト・ホワイトが、このアリンスキーの方法論を伝えるために招きを受けて、1968年韓国、1970年フィリピンへ行った。フィリピンでは、まずコミュニティー・オーガナイザーの養成機関としてPECCO(Philippine Ecumenical Committee for Community Organizer:コミュニティー・オーガナイザーフィリピン委員会)を創設した(PECCOは1977年にCOPE(Community Organization of the Philippine Enterprise:フィリピン企図的コミュニティー組織)によって引き継がれた)。このコミュニティー・オーガナイザーの役割を一言で言うならば、そのスラム・スクオッター地域に入りこんで一緒に住み、住民自身が自分たちの問題を決定できるように手伝いながらコミュニティーを組織化・強化して行くことである。なお韓国では、1969年に都市問題研究所が最初のコミュニティー・オーガナイザー訓練プログラムを行って、その後、種々の団体がコミュニティー・オーガナイザーを養成し、現在では主にCONET (Korean Community Organizing Information Network:韓国住民運動情報教育院)が引き継いでいる。

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 続いて1971年に、アジア各国にコミュニティー・オーガナイザーの養成機関を創設するため1971年ACPO(Asian Committee for People's Organization:アジア住民組織委員会)が設立された(初代所長は、同志社大学の竹中正夫氏であった。しかし日本では寄せ場運動の特殊性もあり、この運動は継承されなかった)。この働きによって、それ以降アジア各国にコミュニティー・オーガナイザーの養成機関及び統轄組織が設立された。1971年には香港でSOCO (Society for Community Organizations:コミュニティー組織協会)、1972年にはインドネシアでICCO(Indonesian Committee on Community Organization:インドネシアコミュニティー組織委員会。現在はUPC(urban poor consortium:都市貧民協会)が引き継いでいる)、1973年にはタイでVOMPOT)Voluntary Movement for Peoples Organization in Thailand:タイ住民組織自発的運動。なおこれは1986年以降POP(People's Organization for Participation:参加住民組織)に引き継がれている)、1979年には、インドでCISRSが設立された。ほかにもネパールやマレーシアでもコミュニティー・オーガナイザーの養成が行われた。なお、自国に養成機関を設立することができなかったミャンマー、スリランカ、パキスタン、バングラデッシュなどの人たちも、PECCOやACPOで養成を受けた。

 またこのように養成されたコミュニティー・オーガナイザーの働きによってアジア各国にいくつもの有名な貧困者コミュニティーが生まれた。たとえば、1970年にマニラのトンドスラム地域で、最盛期(1975年頃)約30万人を組織したZOTO(Zone One Tondo Organization:トンド地域統一組織)が誕生した。またインドのボンベイでは、1979年、アジア最大のスラムといわれるダラビ地域(現在は約80万人ほど)の住民組織であるPROUD(People's Responsible Organization of United Dharavi:ダラビ住民統一組織)、ワダラ地区(約40万人)では、1986年POWER(People's Organization Wadala for Equality and Rights:平等と権利のためのワダラ住民組織)が誕生した(これらは現在も活動中で、この組織力のために1993年以降両スラムでは強制排除は行われていない)。もちろんほかに各国無数のスラムコミュニティーが誕生した。

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 なお、現在ACPOの機能は、1993年以降LOCOA(Leaders and Organizers of Community Organization in Asia:アジアコミュニティー組織のリーダーとオータナイザー)によって引き継がれるとともに、アジア各国での連帯関係の強化を模索している。

 

■コミュニティー・オーガナイズの10のステップ(コミュニティー・オーガナイザーの役割)

 上述したコミュニティー組織化運動の具体的なイメージを持ってもらうため、以下にコミュニティー・オーガナイズの10ステップを簡単に紹介する。これは主にフィリピンのPECCO、ACPOの設立当時からコミュニティー・オーガナイザー(以下、CO)として働いているデニス・マーフィーの『A Decent Place to Live』という本に依拠している。

 

Step-1.[地域に溶け込む]

 まず、組織化を行う地域に入り、人々と自然な関係を築くことに努める。事前に、対象となる地域の住民をひとり紹介してもらい、その人脈をたどって地域に溶け込むのがベストなやり方である。もし全く未知の地域に入る場合は、道を尋ねたり食堂での世間話から友人をつくるのがベター。可能な限り、人々の日常生活(仕事や家事、親睦会など)に参加して話題を共有し、違和感無く地域に溶け込めるよう努める。できれば、その地域に住みこむこと。またその住民の大切にしている価値を認めて、それらを尊敬することが必要。

 

Step-2.[調査(情報収集)]

 その地域の政治・経済・社会状況について、体系的に調査して分析する。必要であれば社会学で用いられるような手法(質問紙)を利用できるが、この段階ではできるだけ自然に、日常生活への参加と観察を主な手段として調査を行うことが望ましい。収集すべきデータは、組織化が対象とする問題によって当然、異なってくる。また、今後の組織化において集団行動の核になりうるリーダー候補をさがすことも同時に行う。

 

Step-3.[暫定戦略の策定]

 組織化のための戦略を立てる。この際、具体的に取り組むのが問題の選定が重要であるが、その際には、次の点を考慮する。多くの人に影響を与えることが出来、かつ多くの人がその問題に関心が持てるようなもの、解決可能な問題であること、ドラマティックで将来的に別の問題にもつなげられる問題であること。つまり集団行動のメリットと重要性を住民に認識してもらいやすい問題に取り組むべきである。また地域の社会状況に応じてどのような形式の組織が最適なのか、誰がどのような役割を果たすことができそうか、専門知識や技術を提供してくれるサポート団体は存在するか、などを考えて暫定的な戦略を立てる。ただし、こうしてできた戦略は、当然住民自身によって承認され実現されるものであるし、住民のアイディアで予想外の方向に進むことがむしろ望ましいケースも多い。これらはあくまでも、CO実践者が自身の組織化活動のために立てる予定であって、地域住民を束縛するようなことは避けられねばならない。

 

Step-4.[下準備・根回し]

 いよいよ組織化に入る。まず人々にやる気を起こさせることが重要。ここでは準備段階として、集団行動に興味と理解を示しそうな住民を対象に、お酒を飲みながら、雑談をしながら、気楽な雰囲気のなかで集団行動のメリットと必要性について話し合う。CO実践者は、自分の主張を一方的にまくし立てるのではなく、むしろ最低限の発話回数で最大限の住民の発言を引き出せるよう工夫する。たとえば「今の生活に不満があるとすれば何か」「その問題の原因は何か」「なぜ解決できないのだろうか」などの質問をゆっくりと繰り出しながら、住民が自分たちの問題を考え、話し合う機会を提供する。必要に応じて、他地域での組織化の成功事例を挙げたり、自分が地域を観察して感じたことなどを述べることもできる。このプロセスは、住民との信頼関係を十分に確立した上で(半年以上の地域との関わりが必要)、さらに機会をとらえて何度も繰り返しこの話し合いを行う。

 最終的に、議論に参加した住民の中から自発的に組織化したいとの意見が出てくれば、集会の開き方など必要な具体的アドバイスを行う。事態が緊急を要するとき(政府による強制立ち退きが数日後に迫っているなど)は、CO実践者が率先して集会の日時場所決めや、各世帯への連絡などをリードすることも許容される。

 

Step-5.[住民集会]

 下準備・根回しで中心メンバーによる組織化の流れができれば、それを地域全体の流れとするために住民集会を開催する。できるだけ多くの住民が参加できるように、時間や場所を工夫することが重要になる(これによって人々に集団や自分自身の力を認識してもらい、自分が独りぼっちでないことを分かってもらう)。また、中心メンバーが集会の必要性をほかの住民に伝えるために、各世帯を訪問してStep-4.と同様の話し合いを行うことも効果的である。ただし、あまりに時間をかけすぎると、中心メンバーたちのなかに芽生えていた熱意が冷めてしまう可能性もあるので、効率的な伝達・連絡ができるようにCO実践者がサポートすることも必要である。集会での議事や進め方についても、サポートが必要になることもある。

 集会で行われる議論は、抽象的なトピック(「どうすれば生活をよくすることができるか」など)よりも、具体的な行動計画(「立ち退きを迫る政府と誰が・いつ・どこで・どのように交渉するか」など)である方が望ましい。Step3.で立てた暫定戦略をStep4.で中心メンバーと十分に煮詰めていれば、集会の目的は必然的に定まっているはずである。

 

Step-6.[役割演習・トレーニング]

 予行演習。集会で決定された行動計画について、実際の手順・役割分担などを予行演習する。これはとりわけ集団行動の中味が「交渉」である場合に重要なプロセスとなる。そのほかの「事業」タイプの行動である場合は、このプロセスを計画の吟味・修正のための話し合いに当てることになる。また、必要な技術修得のための講習会や、類似の事例を行っている近隣地域への視察旅行などを企画することも効果的である。

 

Step-7.[実行]

 計画の実行。この実行によって、長い間の抑圧で埋もれてしまっている人々の自信と誇りを掘り起こす。

 

Step-8.[評価]

 客観的評価。何が成功したのか。何が失敗だったか。メンバーは役割分担をしっかりと果たすことができたか。様々な問題点を、客観的な視点から、なるべく多くの参加者を交えて話し合う。 CO実践者は、一連のプロセスを観察して得られた知見をコメントすることで、議論に参加することもできる。

 

Step-9.[反省会]

 感想・体験の共有。組織化の真の目的は、住民一人一人の意識変革(問題を自力で解決しうる潜在能力に自ら気づき、育む意欲を引き出す)であるから、参加者による事後の主観的意見の交換は極めて重要である。したがって、ここでのトピックは行動の中味そのものよりも、それに参加した各個人の内面の変化についてである。このためしばしば、この集会ではコミュニティー意識を高めるために、他者に関心を持ち手伝うこと、リーダーシップと権威の緊張、自由と民主性といった問題を取り上げることは有効である。

 

Step-10.[住民組織の結成]

 継続的な活動を可能にするため、公式な住民組織を結成する。また、さまざまな活動を積み重ねることによって、組織は強化されて行く。

 

■おわりに(個人的感想)

 アジアのスラム・スクオッター・ホームレス等の貧困者運動の最近の展開を見ていると、運動のやり方や性格がかなり変化しているように思う。70年代は上述したコミュニティーを組織化して行政等と対峙していく対立型運動が中心的であった。外部からコミュニティー・オーガナイザーを現場に送りこみ、そこで組織化を行い対決を通してコミュニティーの強化をはかるアリンスキーの方式は大きな影響力を持っていたのだと思う。そして現在もなお、強制排除がしばしば行われており、このような運動は今なお必要性を持っている。

 しかし、80年代以降は2種類の新しいタイプの運動が新たに展開されてきた。ひとつは行政等とのパートナーシップを築いて住民の利益を獲得して行く運動であり、もうひとつは住民自身による自立的な地平を築いていく運動である。後者は、住民自身の共同体をベースとした貯蓄・信用グループや別の地域の住民自身どうしの経験交流などを有効な手段として展開していくわけだが、その際には、外部者であるコミュニティー・オーガナイザーの役割よりも住民自身または住民のリーダーの役割が非常に重要となるし、オーガナイザーよりもリーダーの養成(成長)がポイントとなってくる。そして90年以降のアジアでは、こちらの運動の方が影響力が大きくなってきているようである。

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 なお、このような全体的状況の変化において、同じアリンスキーの方式を受け継いだLOCOAのメンバーである各国の組織のやり方でも、それぞれによってかなりトーンの違いを感じる。例えばインドネシアのUPCなどは、コミュニティー・オーガナイザーの養成よりもコミュニティーリーダーの養成に力を入れているし、リーダーとオーガナイザーを厳密に区別していないように思われる。これに対して、フィリピンやインドでは伝統的なアリンスキーの方式にできるだけ忠実であろうとしているようである。私個人としては、自由度が大きく、より当事者が主体的に動ける運動の方により大きな関心を持っている。

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■蛇足

 個人的に日本の野宿者運動を見ると当事者の主体性と言う観点では、これらアジアの運動に大きく遅れをとっているように思う(日本において野宿者自身の主体的運動が可能なのかという異論もあろうが……)。野宿者運動において、また行政等の野宿者のための対応にしても、現状の限界を受け入れながらも出来るだけ野宿当事者の主体性を尊重して、彼ら自身が自分たちの方向性を自分たちで決定していくようなあり方を模索すべきではないだろうか。また、種々の特殊性から限界は多いだろうが、出来る限り共同性にフォーカスを当てる必要があるのではないかと考えている。主体性や共同性に注目していかない限り、たとえ、運動や行政の対策の結果、野宿者が町から見えなくなったとしても、長い目で見た場合、それは単に既存の社会の下層に再び組み込まれただけで、本当の意味での社会変革には繋がらないように思う。

 



[1] この節は、アンソレーナ他(1992)『スラムの環境・開発・生活誌』明石書店(第1章)を筆者の許可をとり、抜粋、一部加筆削除したものである。


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